子どもはどう育つのかどう育てるのかわかっていることとわからないこと

   ** 育てる者への発達心理学 関係発達論入門  大倉得史 **

関係発達論というのは、鯨岡峻という日本の発達心理学者が比較的最近提唱した考え方なのだそうです。一昔まえに発達心理学を勉強してそのままの人ははじめて聞く名前かもしれません。

この本は、その関係発達論の考え方に基づいて、実際に子どもが育っていく過程、特に乳児期幼児期の育ちを、実際のエピソードを検討しながら細かく解説しています。

親という立場を経験した者として、なるほどそういうことかと腑に落ちることがたくさんありました。はじめての不安な子育てに向かう親にとっては育児の参考書になるかもしれません。

育てる者への発達心理学―関係発達論入門

育てる者への発達心理学―関係発達論入門

この本は大きく二部に分かれていて、前半はエピソードを紹介しながら、子どもと養育者のかかわりがどのように作られていくかを解説しています。

ここで大事にされているのは、子ども‐養育者の関係性です。

妊娠がわかった初期から、とまどい迷いながらも、親になっていく親の気持ちも検討されています。これまで誰かの子どもであった人間が、親になってはじめて、養育者される者から養育する者へと変化していきます。親も成長しているわけです。

生後3ヶ月までの試行錯誤の大変な時期を経て、3ヶ月微笑といわれるかわいらしい笑顔に出会い、赤ちゃんとの情緒的なやりとりを養育者自らが楽しみ、赤ちゃんの気持ちに共鳴して言葉をかけていくことで、関係性が発達していくようすが細かく描写されています。

寝返り、お座り、這い這いなどの行動に関しても、「もちろんヒトという生物の遺伝的素質が時とともに自然と開花するために生じてくる」といいつつ、そうした遺伝的素質が<子ども‐養育者関係>の中でこそ活性化されることにもっと光を当てるべきだといいます(p.87)。エピソードで語られるのは、親やきょうだいといった赤ちゃんの周りの人たちが、ごく自然に赤ちゃんと気持ちを共鳴しあうことによって、結果として能力が開花するような誘いかけをしているということです。

後半では理論的なことが解説されています。

これまでの発達心理学では基本とされるピアジェの理論にはじまり、ヴィゴツキー、ウエルナー、ワロンを検討し、フロイト、クライン、ウィニコットといった精神分析学的な理論を概観した後にスターンの理論をとりあげています。
そして、それらの理論でもまだ足りなかった、「子どもがどんなことを思い、どんな葛藤を経ながら、情緒的にどのように成長していくか」(p.264)を、関係発達論がどう扱うかを理論的に述べています。

この本の中には、医師から「自閉傾向」と診断されたが実際は関係性の発達がうまく行っていなかっただけだったという例が載っています(pp.123-124)。この例では、お母さんとはうまく合わない子どもが療育の担当者とは自然に通じ合うので、「自閉性障害ではなく」母親との<関係障がい>が、目が合わない、言葉が遅いなどの諸問題につながっていると考え、療育をすすめています。

こんなケースでも、「母親の関わり方がいけないのだ」と見てしまうのではなく、かなり小さい時期の母親の誘いかけと子どもの乗り方の噛みあわなさが、悪循環を起こして固定的な<関係障がい>が生まれたと見るのが発達関係論なのだと述べられています。特に<不適切>な育て方をしていなくてもちょっとしたことで噛み合わせの悪さは起こりうるし、逆に、なんらかの器質的な障がいなどによって言語発達が遅れたとしても、その他さまざまの補助手段でお互いの意図を通じ合わせるような関係が開けていれば、通常の生活を送り、健全な心を育んでいくことが十分できると書かれています。要は、関係性が育っているかなのだと。

 
ピアジェの理論は発達心理学の基本として教科書などに採用されてきたわけですが、赤ちゃんの能力が生後何ヶ月にこういう風に発達する、といった記述で、あたかも、赤ちゃんは誰の助けも借りず自然の力で発達していくのだといわんばかりの印象を与えます。そのような理解に基づけば、誰がどんな育て方、関わり方をしても、赤ちゃんは生まれついた特性の通りに育つことになり、周囲と上手く関われない、言語の発達が遅れるといった問題は生まれつきのものであると考えられることになってしまいます。

しかし実際には、人手の不足している乳児院で情緒障害や発達遅滞が起こるホスピタリズムが観察されており、養育のやりかたいかんで、子どもの発達は変わります。親をはじめとした養育者には、上手く関わっていく、かかわりを育てていく責任が発生するわけです。ごく自然なかたちで関係を作っていける親子がいる一方で、種々の事情でうまく関われないと感じる親もいるわけです。

じゃあ、どう関われば良いのか。自分の関わり方のどこを直せばいいのか。

関係発達論というのは実際に生活を送っている子どもや養育者に密着しつつ「いかに育てるべきか」を考えていく実践論である。(p.15)

関係発達論を学ぶことで、どのように関わればいいのかという問いの答えが少し見えてくるということなんだと思います。

実際の乳児健診などでは、養育のしかたや親子の関係性などは不問のまま、子どもの様子を聞き取って<自閉傾向>などの診断が下され、たいしたアドバイスもなく「様子をみましょう」といわれてしまうケースも多いとききます。自閉症は、参考図書などの記述を見れば生まれつきの障害と書かれているわけで、親はどのような策を講じればいいのか途方にくれます。

しろうとの立場から見れば、どう関わればいいのかということも、学問として確立しているはずだと考えがちだと思いますが、この本を読む限り、それは幻想のようです。関係発達論に関する書籍が出版され始めたのは2000年ごろで、はじめたのは日本の研究者です。名著と呼ばれる育児指南書もないわけではないですが、子どもはどう育つのか、どう育てるのがいいのか、学問としてはまだまだわかっていないことがたくさんあるのだというのが実情なのでしょう。

この本では間主観性、両義性、相互主体性といったキーワードを説きながら子どもと養育者の望ましい関係の作り方を論じています。ここではうまく紹介できませんが、たとえば泣き止まない赤ちゃんに対して、赤ちゃんには赤ちゃんの思いがあることをわかりつつ、「おおよしよし」と鷹揚に構えるような関わりかたが、良いのだそうです(p.285)。それはもしかしたら、普段の人間関係においても、相手の考えが今ひとつわからなくても、関係を絶つのでもなく深く干渉するのでもなく適当に付き合っていける大人としてのスキルに関わっているのかもしれません。

子育てはもちろん楽しいこともたくさんありますが、道なき道を手探りで進むような難しさが伴います。関係発達論はそのような親の手引きとして有用だと思われ、今後の発展が待ち遠しいと思いました。この本は多少理論的ではありますが、妊娠初期から2歳ぐらいまでのエピソードが49収められ、うまくいっている関係というのはこういうことなんだというイメージが得られます。子育て真っ最中の親御さんにもおすすめしたい内容だと思いました。
 

( 『育てる者への発達心理学 関係発達論入門』 大倉得史/著  2011年10月 ナカニシヤ出版 )  



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<番外編>あと3冊。もうひとつのブログも終了します。

97冊読んだことになります。

発達障害をテーマに100冊の本を読むということを自分に課してきたわけですが、とうとう、あと3冊になりました。ご愛読ありがとうございます。

このブログに平行して、もうひとつのブログ
 晴れの日は、えっちらおっちら 
を進めてきたのですが、同時に終了し、新しいブログに統合して引き継ごうと考えています。

「晴れの日は..」をまだ読んでない方は、よかったらお立ち寄りください。
本を読みながら考えたこと、私自身の生活のことなどを書いています。

長い間抑うつ症状の中にあって、どうにかそこから抜け出したいと自分のためにはじめたブログですが、たくさんの方に読んでもらって本当に励みになりました。
おかげさまで光の見える方に着実に歩みつつあります。ありがとうございます。
ブログを始めた当初は自分自身が発達障害ではないかという疑いを持っていたわけですが、今は生まれ持った特性としては個性の範囲だと考えています。ただ、育ちの面ではいろいろと問題を持った人間であると思っています。
今興味があるのは、そのような特性や、また自分自身では選べなかった育ちの環境をどう捉え、自分で自分を育てていけるかという点です。
新しいブログはそのあたりに話題をシフトさせていこうと思っています。
 
あと3冊ですが、発達障害を考える上でのしめくくりにふさわしいものを私なりに選んで読み込んでいます。お楽しみに。

 
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脳と腸の深い関係が医学を変える

   ** 内臓感覚 脳と腸の不思議な関係 福土 審 **

心身医学というジャンルがあるそうです。この本の著者は、ストレス性の病気、特に過敏性腸症候群IBS)を専門に研究している方です。

緊張が高まると胃腸の具合が変わるという体験は誰でもしたことがあると思いますが、脳と腸の関係を追及していくと、いろいろわかってきているようです。

もしかしたら、これまでの医学の常識が変わってしまうかもしれません。

内臓感覚 脳と腸の不思議な関係 (NHKブックス)

内臓感覚 脳と腸の不思議な関係 (NHKブックス)

 
生物の進化の道筋をたどると、腸だけの生物が先に生まれ、腸を動かしていた神経の先が変化して脳になったと考えられるのだそうです。腸と脳では、腸の方が起源が古いわけです。

腸を動かす神経系は脳とは独立していて、腸神経系と呼ばれている(p.188)、とありますが、これは比較的新しい知見のようです。私のように若い頃の高校生物の知識を頼りにしている者には新鮮でした。腸にも、脳と同じようなシナプス組織があって、脳内とおなじような神経伝達物質を使った電気信号のやりとりが行われているのだそうです。

腸の神経は自立的に腸を動かすために働いていて、腸内の強い圧力などを感じるとそれを脳に伝え、痛みや不快感などは脳で生じるようです。
 
ところで、IBS過敏性腸症候群)では、多様な身体症状と、抑うつ感、不安感、緊張感、不眠、焦燥感、意欲低下、心気傾向などの精神症状を持つことが多く、心理検査でも不安やうつの傾向が高くなることがわかっていて、精神療法が功を奏すこともあるのだそうです。
そうきくと<気のせい>なのだろうか、などと思ってしまうのですが、実際には身体の異変がちゃんと起きていることがわかっています。なんらかの生理的な反応を考えるにしても、脳の異変が先にあって身体の異変が起こるのだろうかと考えがちなのですが、IBS患者では腸の知覚過敏が起きており、腸の不快感からうつの症状が起きることも突き止められているのだそうで、腸と脳はお互いに連関しながらIBSとうつの症状を作っているようなんですね。このことを心身医学では「脳腸相関」という言葉で表現し、この著者も論文などで発表しているそうです。

このブログでも以前取り上げましたが、アントニオ・ダマシオが、身体の感覚に由来する感情がとっさの判断に使われているということを言っていて、この本にも取り上げられています。ソマティック・マーカー仮説です(p.192)。(→関連記事

また、IBSの危険因子としての「アレキシサイミア」についても述べています(p.218)。この言葉は日本語では「失感情症」と訳され。感情を言語化できないため症状が身体化することを言います。もともとは心身症の心理とされていましたが、現在は、精神疾患や一部の身体疾患にも見られることがわかっているものです。
実験結果としてこういうことが書かれています。

アレキシサイミアでは、他人の表情のような社会的な文脈の刺激には右の脳が働かず、内臓の刺激によって脳が異常に活性化する。こういった脳内のプロセスの異常がIBSを引き起こす性格の根底にあって、これがIBSのリスクになっていると考えられる(p.220)。

アレキシサイミアは言語化しにくい脳が原因というより、内臓と脳の連関のしかたの異常ということもいえるのかもしれないわけです。
その直後に、IBSに合併しやすい状態を20項目以上羅列した部分があり、そのなかに、注意欠陥多動障害、アスペルガー障害を中心とした症候群というのがあげられています。アレキシサイミアやIBS発達障害とどういう関係があるのかははっきりしませんが、他人の表情より腸の刺激で動いてしまう脳のタイプがあるというのは興味深いですよね。

これまでの常識では脳が指令を出し、身体の組織はただ従っていると考えられていました。でも、最近は、末端の組織と脳はお互いに連関しながら働いていると考えられ、外からの感覚刺激を内臓を含め全身で受け止めることによって情動が形成され、それが知性に影響を与えていると考えられつつあるようです。

感覚こそ、脳機能の土台ではないか、と風向きが変化してきた(p.224)

これまでの医学、特に西洋医学は身体の病気とこころの病気を区別し、それぞれ別の医師によって別の見立てで診療するということをやってきたわけですが、この本を読む限り、そのような時代はもうすぐ終わるような気もします。病気といわれるもののほとんどが実は身体の感覚とかかわりを持ち、脳や神経系と身体の各部の連関のなかで起こっている不調と考えられ、こころだとか身体だとか区別を付けられるようなものではないのかもしれないです。

進化的には脳より腸の方が先ということを考えると、脳は腸がなければ動かないようにできているのではないかという話も出てきます。わたしたちはこれまで、必要以上に脳中心にものを考え過ぎていたのかも知れないです。

腸をはじめとする内臓感覚の研究が進めば、脳の意識形成の過程も解き明かせるのではないか(p.230)。

実は、私たちのこころの源は、腸にあるのかもしれません。

これまでこのブログでは、脳機能やこころの発達についていろいろ考えてきました。でも、そのような問題の立て方を変える時期が来たように思います。感覚や情動が知性と共に発達していくプロセスをもっと細やかに見ていく必要があるし、腸内環境のことを考えると、食べ物や感染症などの問題にも取り組まなければこころの問題の全体を見渡すことはできないのかもしれません。
反対に、身体の病気についても、こころの状態との関係から捉えなおす必要が出てくるようにも思います。
発達障害だけでなくさまざまな病気や障害が、まったく違う考え方の枠組みで捉え返される時代がもうすぐ来るのかもしれないです。
 


( 『内臓感覚 脳と腸の不思議な関係』 福土 審/著  2007年9月 NHK出版 )  



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10歳の壁と社会性の発達を考えてみる

   ** 子どもの「10歳の壁」とは何か?乗り越えるための発達心理学 渡辺弥生 **

子どもの発達にとって、9歳から10歳ぐらいの変化は大きなもののようです。確かにこの辺りから子どもは少しずつ大人と同じ領域に入ってくるように思いますし、不登校やいじめなどの問題も出てきやすい時期のように思います。

この大きな変化を乗り越えるために、それまでの子育てが大事だというのはなんとなくわかるのですが、最近の雑誌などの取り上げ方が、早期教育の宣伝になっていて、何が大事なのかよくわからないという話から、この本は始まります。
確かに、よくわかりません。

この際きっちりと、発達心理学でわかっている知見から、10歳の壁について学んでみたいと思います。

子どもの「10歳の壁」とは何か? 乗りこえるための発達心理学 (光文社新書)

子どもの「10歳の壁」とは何か? 乗りこえるための発達心理学 (光文社新書)

発達障害を考える上で、非常に興味深い話が最初の方に出てきます。

聴覚障害児の教育現場で、昔から「9歳レベルの峠」ということが言われていたという話です。(p.45)
私たちが使っている言語スキルには大きく分けて、BICSとCALPというものがあるのだそうです。BICSとはいわゆる話しことば、生活のなかで、文脈や手振り身振りなどに支えられた会話能力のことで、CALPは書きことば、学習に使われる低コンテクストな言語能力のことです。
小学校4年生ごろから学習内容はより抽象的になり、CALPを使って言語でものを考える学習になっていきますが、聴覚障害児は、ここで学力がつまづいてしまうことがよくあるというんですね。

この質的な転換を乗り越えるために、幼児期の自由な遊びが大事なのだそうです。自然で豊かな会話や経験の蓄積、質の高い遊び。平行遊びから連合遊び、協同遊びへの変化を通して、子どもは社会性を身につけますし、見立てやごっこ遊びなどでイメージを発達させます。聴覚障害児では経験不足になりやすいこの点に注意して幼児期を過ごすことで、BICSからCALPへの飛躍が可能になると考えられているようです。(pp.46-53)

抽象的なものの考え方ができることにより、社会性や道徳性も発達してくると考えられています。
友達関係もお互いの趣味などを知り合う関係になり、自分というものを複数の側面からとらえるようになり、「Aは、Bが○○と考えている、と思っている」という、他人の心理を推理する能力が身につき、肯定的な感情と否定的な感情の両方を体験していても自発的に言葉で表現できるようになり、相手の内面を想像して互いの視点を調整できるようになり。。。。。と、話がすすんでいきます。

つまり、学力だけでなく、社会性、道徳性の発達のために、乳幼児期にしっかり大人とかかわり、しっかり遊んでおくことが大事、ということです。

最近は子ども全般にその経験の不足が問題になります。家庭での教育力の低下、子どもの数が減って友達同士で遊ぶ機会が少なくなっていると指摘しています。幼児期後半になると明らかに「友達と楽しくかかわれない子どもの存在に気づく」(p.220)と書かれていますが、それは生まれてから5、6年の生活経験の質によって起こってくると書かれています。

これらを総合して考えてみると、小学生になって社会性が発達していない子どもには、少なくともふたとおりの理由が考えられることになります。なんらかのハンディがあったのか、それとも、乳幼児期の経験不足か、です。

社会性が育っていない=生まれつきの脳の特性 とは到底いえないということになりますし、 
裏を返せば、幼児の育つ豊かな環境があれば、ちょっとぐらいの脳の特性などなんのその、子どもはすくすく育っていくということになります。
実際は、経験不足な子どもが増えてきたことで、そのちょっとぐらいの脳の特性が目立ってしまっているのが、今の軽度発達障害と言えるのかもしれません。

10歳は実際は上れない壁ではなく、峠であり、飛躍の時期だといいます。
社会性を育てる「ソーシャルスキル教育」道徳性を育てる「思いやり育成プログラム」が紹介されています。(第9章)
発達心理学が示す、何歳ならこう、という特徴は、放っておいても自然にそうなる、何もしなくてもプログラムされているという意味ではないといいます。
大人が支援し、環境を整えてやることが必要で、それを学校や病院などで取り入れていくのがこれらのプログラムということです。

学校や病院などでこのようなプログラムが組まれることはいいことだとは思いますが、その前に、幼児期の経験を豊かにしていくにはどうしたらいいのでしょうか。
難しいけれど、真剣に考える必要があるように思いました。
 


( 『子どもの「10歳の壁」とは何か?乗り越えるための発達心理学』 渡辺弥生/著 2011年4月 光文社新書 ANATOMY OF EPIDEMIC by Robart Whitaker 



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異常とみなされることで精神の病ははじまる

   ** 異常とは何か 小俣和一郎 **

タイトルには、異常、としか書いていませんが、精神異常とはなにか、という本です。著者は、精神科医であり、精神医学史の研究家でもある方です。

この本を読みながら、私たちが何気なく受け入れている、精神の病気、という考え方の本質を確認する作業をしてみようと思います。

異常とは何か (講談社現代新書)

異常とは何か (講談社現代新書)

この本によると、

精神病が「病気」とみなされるようになった歴史は案外浅く、ヨーロッパでは18世紀から19世紀ごろ、おおむね近代といわれる時代からだといいます。

それまでは、神罰とか悪魔つきとか言われると同時に、神の言葉を伝えるなどの特殊な力を持つとも考えられていました。なんらかの超常現象と考えられていたわけです。
 
近代になって、ある傾向を持った「異常」な人を病気と考えるようになり、その原因を、脳という臓器の病と捉えて治療を試みるようになったわけで、このことを精神医学化と呼んでいますが、(p.94)

しかしながら、日常生活にとって何か不都合なものを次々と「病」に加え、精神医学の対象を生み出していくのなら、それは際限のない精神医学化を生み出すであろう。そこには、精神障害とは何の本来的関係もない事象が含まれる懼れもある(p.96)

それでは、異常とはなんでしょう。この本の問いが浮かび上がることになります。
 
第4章で、正常と異常を図(トポロジー)で考えるとどういうモデルになるかということを検証しています。素朴な考えでは、正常と異常は対立していて連続性はないようにも思えますが、境界線はどこかということを突き詰めると、スペクトラムモデルに行きつきます。

自閉症スペクトラムASDの名称に使われている、スペクトラムとはまさにこのモデルを採用しているわけですよね。

スペクトラムモデルは、精神分析の考え方と密接な関係を持つようです。フロイト以前の精神医学は「異常」な人間には遺伝的な欠陥があるという前提で考えられていて、優生学の見地から精神障害者安楽死を求められたりしています。この時点では、異常と正常ははっきり区別できるものと考えられていました。精神分析学が育っていく過程での「発達上の障害」という考えを持ち込んだことで、正常と異常の間には移行帯が想定されるようになっていくわけです。
 
この本では、これでは飽き足らなくて、メビウスの輪モデル(p.169)というのを新たに考えています。正常とか異常というのは、もともと多数派と少数派の関係であって、時代や文化背景が変われば入れ替わることもあるということ(第1章)、正常さが過剰になると異常になること(第3章)を加味するとこうなるようです。正常と異常は表と裏で、かつ連続しているということを表すとこうなるのではないか、というのが著者の考えのようです。

特に、メランコリー性格といわれる、真面目で几帳面で融通の利かない性格について論じています。この性格を持つ人は適応的で優秀で、世の中に役に立つ人たちなのですが、度が過ぎると、異常になります。
精神医学症状である「うつ」「不安」「緊張」「恐怖」も、正常な心理状態が過剰に起こることと説明できます。幻覚や妄想でさえ、ごく弱いものが短時間出現することは誰にでもありえることだといいます。異常というのは、質的なものではなくて、量的なもの、過剰という考え方で説明がつくのではないか、というんですよね(第3章)。

精神の病という状態を、なんらかの特殊な遺伝形質とか、なんらかの欠損といったその人の特殊な属性によるものと捉えてしまうのがそもそもの間違いで、誰にでもあるものが過剰にある状態と見るべきなのではないか。だから、正常の先に異常があり、その裏に正常があるといった、メビウスの輪になり、異常と正常が両端にあるスペクトラムとも違うという議論になっているようです。

ちょっと難しいです。わかったようなわからないような。

小難しい議論が続き、堅苦しい印象の本なのですが、著者がこの本で言いたかったことの少なくともひとつは、うつや不安などの症状を病的として徹底的に撲滅するのが治療の目的ではないということだったのではないかと思います。それは誰にでもあるもので、なくすのではなく、ほどほどに収めることが治療であると。

世の中には「反精神医学」といって、精神医学はレッテル貼りだけで治療は無意味であると主張する人たちがいるのですが、それはそれで違うとこの著者はいいます(p.102)。それでも、時代の価値観や文化の違いによって、同じ特徴を持つ人たちが病的とされたり高い評価を得たりしていることを考えれば、異常と決めつけ正常化を求めることの暴力に気づくべきだということなのだというのです。

少なくとも、近代に発する今日の精神医学は、自らが規定する「異常」というものに対して、それをただちに、一律に、そして無反省に治療のターゲットとするのではなく、多少の熟慮と寛容さをもつべきではないだろうか。(p.230)

 

振り返ってわれわれ俗世間での精神障害者に対する見方を考えてみれば、異常と正常の間になんらかの線引きを行って対比することで今の社会・今の文化の秩序を守っている部分があるのだろうと思います。それは社会的な意味での線引きであって、本質的なものではないといえるのかもしれません。

このブログでは長い間発達障害について考えてきたわけですが、発達障害は歴史の中で、育て方の問題だといわれたり、脳の機能障害といわれたり、スペクトラムといわるようになったり、いろいろな学説の変遷をたどってきています。この本の議論を見ていると、それぞれの学説についてわれわれ一般人が真剣にどうのこうの言ってもしかたがないような気がしてきました。
当事者やその家族は、学術的な論争には距離をとり遠巻きに眺めながら、今ここにある、自分たちが抱える問題と取り組むことに専心すべきなのかもしれません。
精神の病が社会的に規定され本質的なものでないとするならば、当事者はもっと自分自身に自信を持っていいのではないかと思います。排除され自尊感情を傷つけられることで起こる辛い症状を克服し、自分らしさを確立することを目指すべきなのでしょう。

おそらく、知能指数などで評価できる部分、あるいは多動、学習障害、対人関係上の障害などによって標識付けられている「発達障害」の部分などは、いずれも精神機能全体のごく限られた部分への評価に過ぎないのではないか。その部分において過少が認められるとしても、それ以外の部分では何らかの精神機能の過剰として評価すべき点があるのではないだろうか。もちろん、われわれはそうした評価の総合的で統一的な軸をいまだ用意できていない。(pp.155-156)

精神医学はまだまだ途上にあります。俗世間の私たちこそ、精神医学の成果を「多少の熟慮と寛容さをもって」眺める目を持つべきなのかもしれないと思いました。


( 『異常とは何か』 小俣和一郎/著 2010年4月 講談社現代新書2049



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精神科の薬の歴史は精神科の病気の歴史

   ** 心の病の「流行」と精神科治療薬の真実 ロバート・ウィタカー(アメリカ) **

アメリカのジャーナリストによって書かれた、精神科治療薬の歴史や背景についての報告です。

著者がこの問題に取り組むようになったきっかけは、統合失調症転帰について、富裕国と貧困国の比較をした報告書に触れたことだといいます。

長期的に見ると、貧困国のほうが、統合失調症にかかった人がよく治っていること。そして、貧困国では、抗精神薬を使っている人がとても少ないということに気づき、精神科の薬とは、そもそも何なのか、どのようなものだと考えたらいいのか、そのような疑問からジャーナリストとして調べていった結果をまとめたものです。

心の病の「流行」と精神科治療薬の真実

心の病の「流行」と精神科治療薬の真実

  • 作者: ロバート・ウィタカー,小野善郎,門脇陽子,森田由美
  • 出版社/メーカー: 福村出版
  • 発売日: 2012/09/19
  • メディア: 単行本
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抗精神病薬といわれる薬が最初に歴史に登場したのは、1945年のことだそうです。
昭和20年。第二次世界大戦終結した年です。

この頃、内科領域では抗生物質というものが使われ始め、医療によって病気を克服するという考えが強く浸透しはじめたということを念頭に置く必要があります。

新しい画期的な薬で、これまで治らなかった病気が簡単に治る、という夢が語られていました。この本では、「魔法の弾丸」モデルという言葉で語られています。

当時の精神科の治療には、インシュリン昏睡、電気ショック、ロボトミーなどがあり、それらに代わるものとして、新薬が期待されたわけです。

初期の抗精神薬は、他の作用を期待した薬の開発のときにたまたま患者に「多幸感」をもたらすことがわかったり、筋弛緩作用があることがわかったりしたことから実用化されています。精神障害の原因というような部分に直接作用するものではないことは、その時点では明らかだったのですが、どうも1960年を過ぎた辺りで、ちょっとしたイメージの変換が起こったらしいです。(第4章)
製薬会社と医師会によってイメージの操作が行われた可能性をこの本では指摘しています。気分を落ち着けたり、気分を明るくしたりする作用が経験的にわかっているだけの薬に「抗精神病薬」「抗うつ薬」といった名前をつけると、特定の障害の治療薬という印象を与えます。それを後から説明するために、脳内科学物質のアンバランスといった仮説が立てられるようになったのだといいます。(第5章)

私たちがよく見聞きする、セロトニンがなんとか、とか、ドーパミンがなんとか、とか、そういう学説のことですよね。薬が先にあって、学説はあとからついてきた。

薬を使うようになったら精神科の患者が減ったかというとそうではなく、慢性化してすっきり治らず、社会生活を取り戻すことができない患者がかえって増えている現状をこの本では資料を使って訴えています。アメリカの話ですが、日本も、まあ似たような状況があるんじゃないでしょうか。

後半になるとここ数年の話として、抗うつ薬プロザックADHDリタリンコンサータ気分安定剤のリチウム剤などが話題に上ってきます。この辺りになると、読んでいてあまり気分の良い話ではありません。製薬会社があの手この手で薬のイメージを高めようとしたことが書かれています。一口に言えば、金儲けですよね。

医学的な説明について細かい議論をするような知識は、私は持ち合わせていませんが、

薬の効能を過信してはいけないし、それに頼ってもいけないし、長期に飲み続けるときはかなりの注意が必要であることは、よくわかりました。

 
私自身、精神科の薬にお世話になった時期を経てどうにか健康を取り戻そうとしている一人として、ここに書いてあることを事実として受け止めるのにはそれなりの痛みがありました。でも、

この本を読むと精神科の薬だけが悪者のように見えますが、振り返って、他の薬もどうでしょうか。短期的には良いように見えて、結局は患者の状態を悪くするような薬や治療が、内科や外科にないと言い切れるでしょうか。

20世紀という時代は今から見ると、いささか強引に病気を征服しようとしたり、手っ取り早く金儲けをしようとしたりして、人々から長期的な視野が見失われていた時代だったようにも思います。それらを冷静に見つめなおして、もういちど、病気との付き合い方を模索する時期に来ているのだと言えるのかもしれません。

いろんな精神の病が、脳の機能障害といわれました。それは精神科の病気の歴史ですが、同時に精神科の薬の歴史でもあったわけです。精神科の病気を考える上で本当に大事なのは、患者のひとりひとりが周囲の人とどうにかうまく関われるようになってそれなりに充実した人生をまっとうできることであって、今ある不快な症状、それも周囲の人から見た不快な症状を抑えること、抑え続けることではないはずです。

読み終えてから記事にするのに時間がかかりました。
今精神科の薬を飲んでいる人には不安な材料が含まれている本ですが、薬の止め方には順序がありますから、勝手な判断で止めるのではなく、信頼できる医師を探して欲しいと思います。より充実した、自分らしい人生のために。
 



( 『心の病の「流行」と精神科治療薬の真実』 ロバート・ウィタカー/著 小野善郎/監訳 門脇陽子・森田由美/訳 2012年9月 福村出版 ANATOMY OF EPIDEMIC by Robart Whitaker 



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受け止める大人の力と子どもの育ち

   ** 現代<子ども>暴力論 芹沢俊介 **

  
25年ちかく前の1989年に出版された本で、私が読んだのは加筆、増補されて1997年に出されたものです。私より先に読まれた方もたくさんおられると思います。

イノセンス”というキーワードで、時代の中の子どもをめぐる暴力の問題を解き明かしていく評論集です。

現代「子ども」暴力論

現代「子ども」暴力論

イノセンスというのは、一般的には、無実、無邪気といったような意味で使われる言葉ですが、この本では、「根源的な受動性」(p.21)ということをイノセンスという言葉で表現しています。

子どもは、親も、生まれてくる時期も、性別も、名前も選ぶことはできず、ただただ受身な存在として生まれてきます。これが、根源的な受動性。ここに生まれようとか、女がいいとか、自分で決める自由はなく、仕方がない形で存在させられます。
このような不自由は強制されたという点で「暴力と言いかえてもいい」(p.21)と考えることから、この論集は始まります。

ひとは、おとなになるとき、このイノセンスを捨てるのだといいます。この世に生まれたことを肯定し、親たちから生まれたことを肯定し、自分の身体と名前を肯定する。その過程の中で、イノセンスは放出されてくる。こどもが放出してくるイノセンスを、周囲の大人は、受け止めなければならない。上手に受け止められたイノセンスは解体されるが、大人側の受け止めがうまく行かないと、イノセンスはさらに封じ込められ、極端な形に膨らんで暴力として現れてくるのだと。

家庭内暴力、拒食症・過食症、校内暴力、暴走族、性非行、体罰、登校拒否……といった、数々の子どもの問題が、このイノセンスの放出というキーワードで語られていきます。

ところで、イノセンスをうまく受け止めるというのはどういうことを指すのでしょうか。次のような例が挙げられています。

四歳で養子として養親との出会いをした子どもが、自分にはたくさんの家族がいるという幻の物語を語ります。そこに養親が「そう、すてきね。そのなかに新しいお母さんも入れてほしいなぁ」と答える。幻の物語は、ここでは四歳の子どものイノセンス、苛烈な現実を受け入れがたい気持ちの放出であり、養親に肯定的に受け止めらたことで、このイノセンスは解体されたと解説されています。もし、幻の物語が否定されていたら、イノセンスは未完のまま内部に残されるだろうと書かれていました(pp.8-9)。

これを、親の立場として捉えると、このような受け止めは、どうでしょうか。誰でも簡単にできることでしょうか。少なくとも私には、難易度の高いものとして映りました。初めて子どもを持つ若い両親や、駆け出しの教師たちに、当たり前にできることとは、到底思えませんでした。

大人の側が、成熟していないということなのでしょうか。

この答えの一部は、児童虐待について書かれた章(p.200〜)にありました。
望まぬ妊娠や、先天異常などの育てにくい子どもを持ったことが、親の方のイノセンスの放出としての虐待につながるということが書かれています。親が、現実を引き受けることができない。自分のせいじゃない、好きでこんな風になったんじゃないという思いを子どもにぶつけてしまう。

女性が個人としての人生を大切にし、出産を計画的に行うようになってきた時代背景との絡みを著者は指摘しています。計画的な家族の時代においては子どもは学校、家庭、社会から、手のかからない子であることが意識的、無意識的に要請される、これも、暴力の一形態ではないかということを著者は指摘しています(p.209)。

この章は1994年に加筆された分で、男女雇用機会均等法が施行されて数年といった時点で書かれています。それから20年ほどが経過した今、親子の関係というものが、子どもがイノセンスを放出する場から、むしろ、大人がイノセンスを放出する場へと移行してしまっていると解釈できるのかもしれません。

おとなになることは、人生を引き受けること。生まれてきた運命を受け止めること。そのために、自分のイノセンスを解体すること。そうやって初めて、子どものイノセンスを受け止めて、子どもの成長を引き出していくことができる。そうだとすれば、親や教師や、社会全体が、ほんとうの意味でおとなになることをもういちど考えていかなければならないでしょう。

この本を読んで、発達障害というものがこの20年間に、育てにくい子、教室に適応的でない子という文脈で語られたこととの重なりを感じずにはいられませんでした。発達障害と呼ばれる子どもが内部に持つ荒ぶる力も、まぎれもなく成長への叫びであり、受け止める大人の度量の大きさを試しているのだろうと思います。

 
( 『現代<子ども>暴力論』 芹沢俊介/著  1997年8月 春秋社 



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