イメージを育てることで脳と身体がつながっていく

** 脳のなかの身体 認知運動療法の挑戦 宮本省三 **

認知運動療法は、イタリアで発案されたリハビリテーションの方法です。脳卒中の半身麻痺や高次脳機能障害などに効果が認められ、日本でも普及がはかられています。

脳科学、哲学、発達心理学などを総合して生み出された新しい理論は、リハビリテーションに新しい風を吹き込んでいるだけでなく、私たちの<脳>と<身体>についての考え方をがらりと変えるだけの力をもっていました。

脳のなかの身体―認知運動療法の挑戦 (講談社現代新書 1929)

脳のなかの身体―認知運動療法の挑戦 (講談社現代新書 1929)

そもそも、脳卒中で身体が動かなくなるというのはどういうことなんでしょう。身体には全く傷はなくもとのままであったにもかかわらず、脳の血管に障害が起こることで、身体の一部が麻痺して機能しなくなるという現象に私たちは出会っているわけですよね。

この現象に対して、これまでのリハビリは、身体に直接アプローチしていたと書かれています。固く硬直する筋肉をマッサージしたり関節を外から動かしたり、動く方の手足を鍛えて日常生活能力を身につけたりするのが、これまでのリハビリだったということのようです。

認知運動療法というリハビリの方法は、これとは全く違っていて、脳に直接働きかけるやりかたをとります。脳が身体をイメージする力を使って、身体を動かすやり方をもう一度「学習」させるのです。

脳が身体をイメージするって。どういうことでしょうか。

どうも、脳卒中で麻痺になった人のなかでは、身体そのものや身体の動きをイメージすることができなくなっていて、それが問題だということなんですよね。

健康な人が、たとえば長い間正座して足がしびれたりすると、足が<思うように動かない>経験をしますが、頭の中では一生懸命<思って>いますよね。こういう風に足を動かしたいというイメージがある。でも、その<思い>の部分が、脳卒中の人では、消失している。

片麻痺の人に自分の身体を絵に描いてもらうと、片方しか描かない、などの例が示されています(p.58)。そもそも、その部分が生きている自分の身体であるという感じがなくなっているんですよね。

人間の感覚には嗅覚や触覚、視覚、聴覚、味覚などがありますが、ここでは、体性感覚という言葉がでてきます。

身体の皮膚、関節、靭帯、筋などには多数の感覚受容器が存在し、各種の感覚情報を脳に伝えている。こうした身体に起源を持つ感覚を医学の世界では「体性感覚(ソーマト・センセーション)」と呼ぶ。(p.34)

体性感覚には表在感覚と深部感覚があります。表在感覚というのは、触感や圧力、温度、痛みなどを感じる皮膚の感覚で、深部感覚の方はさらに二つにわかれ、関節の位置や角度、速度感などを感じる運動覚と、筋肉の収縮感と重さを感じる筋感覚があると書いてあります(p.34)。

私たちは、関節や筋肉の動きを<感じて>いて、それを脳でイメージしながらコントロールしているんだということです。

認知運動療法の話に戻ります。この新しいリハビリテーションの方法では、この「脳でイメージする」やり方を、「学習」するといいます。脳の損傷した部分以外の、残った別の領域をつかって、失った機能と同様のものが「機能的再編成」されることを目指します(p.177)

あらゆる行為には運動イメージが先行する(p.120)

具体的な方法が本の中に説明されていますが、目的の動きのためにはどういう身体の動きが必要か、そのとき関節や筋肉がどのような感じで動くのか、ということに意識を置いてセラピストに援助してもらい動きを体験するというようなやり方です。そうやって「学習」することで脳のなかの身体イメージや運動イメージが回復し、少しずつ身体のコントロールができるようになっていくといいます。
 
この本には、脳卒中高次脳機能障害のことが中心に述べてありますが、認知運動療法発達障害にも応用されているようです。

また、発達障害児では、視覚が正常であっても体性感覚空間の発達が遅れる(p.215)

ここでは発達障害といっても、脳性まひなど、広い意味での発達障害を指していると考えられますが、狭い意味での発達障害、いわゆる軽度発達障害の人たちにも、一風変わった身体感覚があることは知られていますよね。コタツに足が入ってしまうと足がないような感覚であるとか、背中が感じられないとか、そういうことを言ったり書いたりしているものに良く出会います。

実は、定型発達と見られる普通の人たちも、決して自分の身体を外から見たような姿に感じているのではなくて、視覚や聴覚、体性感覚などから入ってくるばらばらの情報をモザイクのように集めて脳のなかで総合して自分の身体として感じているのだといいます。

これが、「脳のなかの身体」です。

発達障害があるとされる人も、そうでない人も、自分の体性感覚を研ぎ澄ましイメージをすることで「脳の中の身体」をより精緻なものに育てることが可能だと考えられます。

私が解説すると、とても大づかみで感覚的な物言いになってしまいましたが、実際は格調高く、科学史をひもとき哲学者の言葉を引用しながら語りかけるような文体の本です。読みすすめながら、ちょっとした感動を味わっていました。脳と身体は深く繋がっているし、そのつながりを自分の力で育てていくことができるということ。その具体的な方法がはっきりと私の前で示されたという思いがあります。乖離などの精神症状、感情の障害、難治性の疼痛なとの治療や一般的な教育や学習にも応用範囲がひろがる可能性を感じました。このブログでも紹介してきた、アレキサンダーテクニーク、フェルデンクライスなどのボディワークの思想にもつながるものも感じます。

今日から、身体をなんとなく動かすのではなく、体性感覚をイメージしながら動いてみようと思います。
 
 
( 『脳のなかの身体 認知運動療法の挑戦』 宮本省三/著  2008年2月 講談社現代新書 



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<番外編>科学的理論とつきあう知恵

50歳を間近に再び学生をやっています。今期は『臨床心理学特論』の講義を聴いているのですが、

うつ病気分障害)について、教科書にこういう記述がありました。

原因不明の脳機能変調による典型的うつ病をはじめとして、脳血管障害の後遺症として現れる血管性のもの、慢性的な過労やストレス蓄積の結果として生じる疲弊性のもの、苦痛な体験の反応として起きる適応障害型のもの、パーソナリティ傾向や認知の偏りから生じるものなど、多彩である。原因がなんであれ、症状がそろえば「気分障害」であるが、治療や援助にあたっては発症状況に応じた個別の配慮が必要である。(放送大学教材『臨床心理学特論』斉藤高雅p.54)。

ここにも、精神科領域の診断名が、原因ではなく、症状によって付けられていることが端的に示されています。(→参考記事

診断名をなんらかの原因と単純に結びつけて、同じ診断名なら誰でも同じ原因だと考えるのは「しろうと理論」だということがいえるのだろうと思います。私も長いこと悩みました。

原因 → 結果 という因果関係の中には、わかりやすい、はっきりしたものもあります。水道に水が引かれている場合、蛇口をひねれば水がでます。お金を入れて販売機のボタンを押せば、切符や飲料水が出てきます。

そういうはっきりした因果関係を、人間はどうしても求めてしまうという性質があるのかもしれません。

よくある科学的な理論に、「○○の人は△△になりやすい傾向がある」というものがあります。「傾向」という言葉が使われているのがポイントで、これは因果関係ではなく、相関関係を示していると思われます。
たとえば、身長と足のサイズには相関関係があります。身長が高いほど足は大きい傾向がありますが、共通の要因を持つ可能性はあるとしても、身長が高いことが直接に足の大きさに影響しているわけではないでしょう。身長のわりに足が大きい、などの例外も、個別に見ていけばかなりたくさんあります。
相関関係がある、ということは、科学的な証拠と見なされますので、科学的理論としては成り立ちます。でも、そこから推測されている因果関係の根拠については、まだ明らかでないものが多く、また、例外も多数あるのが普通です。

また、薬の効用で、「××病には○△薬が効果がある」とされるのは、その薬を飲んだ患者のうちの多数に効果が見られたことを指しています。7割の人に有効だと認められ効果があると見なされた薬であれば、3割の人には効かないということです。逆に、科学的エビデンスが認められないといわれている薬が、実は1割の患者には劇的に効くということも在りうるわけです。

科学的という言い回しが持つ限定的な意味をきちんと理解していれば、単純な因果関係ではないということがしろうとにも理解できます。上手に付き合うことが大事なのだろうということです。

科学的な理論を単純な因果関係だと思いこむことは、数々の問題を引き起こしているように見えます。
病気について例にとれば、こんな感じです。
・絶望   ○○病なので、もう回復の見込みは無い。など。
・責任転嫁 ○○病になったのは、△△のせいだと恨みを持つ。
         または過去を後悔し続け、前向きになれない。
・決め付けや偏見 ○○病になったのは、△△だからなのねー 
      または、△△だから必ず○○病になるに違いない
      という周囲の冷たい視線
・依存   ○△薬を飲んでいるから絶対治ると過信する


「科学的」のしくみを知れば、当たり前に例外があることに気がつきます。理論はあくまでも平均値であり、理論と違うことが個別に起きるのは、奇跡でもなんでもないんです。そこにまっすぐ希望をつなげ、自分の生き方を選んでいくのが個々のありかたなのだと思うのです。
  

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世間のしろうと理論のしくみを知る

** 常識の社会心理「あたりまえ」は本当にあたりまえか 卜部敬康・林理 編 **


私たちの<常識>は、学校で習ったことや、新聞やニュースで知った情報や、お母さんや近所のおばさんに聞いたこと、学校のうわさ、漫画やドラマから、などいろんなもので成り立っていますが、これは、どれぐらい信用できるものなんでしょうか。

この本は、社会心理学の立場から、一般社会で常識とされている考え方を分析してみるというちょっと変わった本です。テーマは、ゴミ処理問題やネット社会、性道徳、学校教育など広範囲にわたりますが、かなり具体的に、かつ結構学術的に検討され、政策提言に近い形にまとめられているものもあり、興味深いです。

常識の社会心理―「あたりまえ」は本当にあたりまえか

常識の社会心理―「あたりまえ」は本当にあたりまえか

扱われているテーマのひとつに「幼児期決定論」がありました。(pp.75-81)

子どもは小さいときに愛情をかけて育てないと、その子が大きくなってから<問題を起こす>と言われている、世間の<常識>についてです。

これを、社会心理学の「現実の社会的構成」という理論を使って解くと、こういうことになります。

1.「三つ子の魂百まで」ということわざが昔からある。
2.凶悪事件や病理現象の説明として、専門家の推測した子ども時代「像」がマスコミなどを通してまるで「現実」であるかのように語られる。
3.マスコミなどで強化された「正しい常識」が多くの人々に受け入れられている状況では、幼児期を「健全な」家庭環境で過ごさなかった子どもは、小さな問題行動も過去と結び付けられて解釈され、特別視、問題視される。
4.冷たい視線を浴びた子どもは自分は特殊な子だという自己イメージを抱き、問題行動を起こしやすくなる。

また、子どもの側の心理としては、こうも説明できます。

幼児期決定論を強く信じる社会では、「両親は幼児に惜しみない愛情を注ぐべき」という社会規範も強くなり、子どもは愛情を受ける権利があるという意識、注いで欲しいという欲望が強くなる。日常生活の不満を、親の過去の育て方のせいにし、親に不満をぶつけることになる。

つまり、「幼児期決定論が常識として信じられていること」そのものが、結果として、その常識を後押しするような状況を生んでしまうというのです。

社会心理学の教科書には「予言の自己成就」という言葉で出てきます。根拠のないことでも、人々が信じることで、予言の内容が結果として達成される。そのようなことは、世の中には実際いくらでもあります。
 
 
この本では、幼児期決定論を裏付ける科学的な証拠はまだないと書いてあります。
これについてはいろいろ意見があることだと思います。実際、脳は3歳までで決まるとか、人格形成は幼児期に決まってしまうとか、そういう<科学的>っぽい本は山ほど出版されているからです。
しかし実際、小さいときに不幸な目に会った子どもに対して、「この子は将来かならず問題を起こすであろう」と確実に予言できるような、そんな理論はどこにもないのです。そのような目でみること、そのまなざしが、その子を問題な子にしてしまうという現実の方が重いように思います。

私なりに補足すれば、問題行動を起こした子どもの幼児期の辛さを理解することはその子の将来を良い方向に持っていく助けとなるという意味で、専門家は発言していると考えられます。身の回りにいる良く似た境遇の子どもを特別な目で見ることが目的ではないはずです。

「しろうと理論」は単純な因果関係から成り立っていることが多く、学問的には誤っているものや、結果的には正しくても意味が誤解されているものなどが含まれています。古くからの慣習だと思っているものが以外にたかだか数十年の慣わしであることもあります。<常識>は、多くの人が信じることによって<常識>となるのであり、本当かどうかは疑ってみる目を持つことも必要だということになります。
 
この本では、最近の社会の傾向として、「望ましいあり方がただひとつ存在する」という信念が単純に信じられやすいことを挙げています。「現在の問題に即応して、わかりやすく」自己に「容易に見える」範囲の体系化をしてしまうことで、多様化どころか単極化した、誰でも同じ価値を追及し、それに合わないものを排除してしまうような窮屈な社会になりつつあるというのです。人間はもともと、ものごとを体系化してとらえようとする傾向がとても強く、あいまいさを抱え込むのは難しいといいます。でも、それを敢えて「あいまいさ耐性」を育て、多様な価値観があっても大丈夫な社会を作っていくことが大事だと結んでいます。
(pp.185-186)。


このブログで扱ってきた「発達障害」も、数々のしろうと理論が出回り、専門家の発言も勝手に解釈されてしろうと理論を下支えする形を取ってきているように思います。人間社会の常として、しろうと理論ができてくることは避けられないとして、それと上手に付き合える知恵が必要だと思いました。
 
 

( 『常識の社会心理「あたりまえ」は本当にあたりまえか』卜部敬康・林理/編  2002年2月 北大路書房

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☆レビューのレビュー(その9)☆自分で自分を育てることは、できる

90冊を読み終え、100冊までとうとう残すところ10冊となりました。
ここまでの10冊は、本の内容をそのまままとめて伝えるブログからの脱皮を目指して、試行錯誤しながらいろんな記事を混ぜ込みました。読みにくい点があったかもしれませんが、お付き合いいただいてありがとうございます。

学者でもないのに、発達障害って何なんだろう、と、考えてきたのは、単に物好きだったからだけではありません。自分や家族が、これに当てはまるのか、そうじゃないのか、どうしてもわからなかった、納得がいかなかった、ということがあります。
また、学べば学ぶほど、哲学的な深い問題に誘われていく奥深さを感じたことも確かです。脳とこころはどんな関係なんでしょうか。人間は、何に向かって「発達」しているんでしょう。完璧な発達とはどういうもので、いつの時点で達成されるのでしょうか。


いろいろ読んでわかってきたのは、発達障害は、しろうとがイメージするような<科学的な根拠>を持った名前ではないということです。
専門家の方はここは大前提なのかもしれませんが、一番これがわかりにくかったです。
発達障害というのは、自閉症スペクトラムなら自閉症スペクトラムとして、なんらかの中核となる原因がはっきり特定され、どうやってそれが起こるのかが解明されていて、その程度が重い人や軽い人がある、というようなものでは、ありません。
もっと大雑把に、<なにやら似たような違和感のある人たち>の集合体として自閉症スペクトラムが考えられていると考えたらいいんですよね。(→関連記事

発達障害だけでなく、精神科領域の診断名は全て、見た目の症状と医師のカンを頼りに付けられているもので、私たちが<理系><医学>からイメージするものとはかけ離れているということも学びました(→関連記事)。なんだか質的に同じような感じがするものにまず名前をつけ、共通の原因が潜んでいるのだろうとあたりをつけて研究しているんですね。
数年ごとに基準を変えて、名前が増えたり減ったり、統合したり分裂したり、いろいろ変遷しています。

以前から少しずつほのめかしているように、成人して「広汎性発達障害」と診断される人たちの脳の特性はあまり強くなく、ほとんどが育ちの過程にきっかけのある不具合だと私は感じています。
小さいときから強い症状を持ち、頑張って療育を受けてどうにか作業所に通って自立するようなタイプの自閉症の人とは、あまり似ていないように思います。

どちらかというと、「新型うつ病」なんかと地続きな感じがあります。あくまでも、私の感じ方ですが。

彼らを典型的な自閉症と同じように考えて、発達障害は大人になると療育の効果がない、一生続く障害だ、手帳や年金の手続きをというような話をするのはおかしいように思います。また、流暢に言葉を駆使する<当事者>が、発達障害の立場を理解して欲しいと訴えて<社会的な>活動をしているというのも、どうも腑に落ちません。

彼らには、まだまだ十分な伸びしろがあるように見えます。
再教育が可能だと思うのです。素敵な個性的な人たちとして社会で活躍できる可能性を秘めているように思います。でも、今は、効果的な教育の方法は確立されていないと言えるでしょう。

でも、医師が「治らない」というのは、医師には治せないということで、教育者が「育たない」と言うのは、教育者には育てられないということだと思います。それは、あくまでも、他人からいじることによって治すことは、できないということなんだと思います。

他人の手で治すことはできなくても、自分で自分を育てることは、できるんじゃないでしょうか。


私は現在、放送大学修士選科生として、臨床心理と教育論を中心に単位取得をすすめています。多少なりとも専門の科目を修得したら、全くのしろうととも言えなくなります(笑)。

これから最後の10冊は、脳とこころ、精神医学の歴史など、おおきな話題を中心に扱ってみたいと思っています。100冊のレビューを書き終えた後はいったんこのブログを修了し、別な場所(といってもまたブログですが)で新たな活動を始めたいと考えています。

自分を育てる、も、テーマのひとつに入れたいと思っています。
 
お楽しみに。




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<番外編>脳機能障害の3つのレベル−私なりの考察−

前回に続いて、これも私なりの考察です。

前回は、脳の機能障害は一生変わらないということを前提に論をすすめましたが、この部分を注目してみたいと思います。

発達障害に関して、脳の機能障害であるという言い方がよく使われますが、いろいろな本や雑誌を見ている限り、この「脳の機能障害」の語られ方についてはいくつか種類があるように思います。

・聴覚や視覚の入力が脳で情報処理されるとき、また、脳の中の情報が言葉や声に変換されるときの、なんらかの機能の障害
ミラーニューロンといわれる脳機能の障害
・実行機能といわれる、行動の順序をきめたり制御したりする機能の障害
・感覚統合の障害。五感やバランス力などが脳で協調して働くことの障害
などなど。

ディスレクシアなどは、情報処理の問題として理解しやすく、ADHDは実行機能の障害が前面に出たものとして理解しやすいように思います。

自閉症スペクトラムについては、書き手によってさまざまに書かれていることが多いですが、乳児期からコミュニケーションの難しさがあることを考えれば、情報処理の部分でなんらかの強い個性を持っていると考えられ、当事者の行動や訴えからは実行機能の障害が推察されていることが多いです。

感覚からの情報処理と、実行機能の二点について、生まれつきで一生変わらないかどうかについて考えてみます。

聴覚処理、視覚処理の強い弱いはある程度誰にでもあることで、少し意識していれば気がつくように思います。運動の素質や手足の長さなどのような、ちょっとした個性のひとつなのだと思いますが、程度によって障害となりうるということだと考えたらいいのだと思います。目や鼻の形などと同じように遺伝的なものが関わっていて、ある程度一生変わりにくいものと了解可能です。

実行機能障害の障害は、ワーキングメモリや行動制御、意欲の制御など様々の障害を総合したもので、社会的責任を果たす上で大きな障害となります。広汎性発達障害アスペルガー症候群と診断された人の手記にも記述が多く、これを生まれつきの特性のように語ったものも多いですが、
この手の脳機能障害が、生まれつきで一生変わらないものであるかというと、かなり怪しい、と、私は思っています。
 
これにそっくりの状態は、老年期になったらたいていの人が経験するものです。更年期の女性にも起きやすい症状です。熱があるときや極度の疲労状態、アルコールや他の薬物によっても似たような状態になります。また、ADHDは、お薬を飲むと、薬が効いている間は症状が改善することもわかっているわけですよね。

実行機能というものはもともと、なんらかの原因でかなり<ソフト的に>良くなったり悪くなったりしやすいものなんだろうと思うのです。
 
二次障害とされているうつ状態、合併が多いとされている免疫異常、自律神経系の乱れ、これらの影響で、実行機能がうまく働かなくなっている可能性があり、これらは治療やさまざまな工夫により改善の余地があると考えていいのではないでしょうか。

こう書くと、発達障害と診断される実行機能障害は<ソフト的>なものより強く、持続的だという反論があるでしょう。それについてはどう説明できるでしょうか。

ADHD集中できない脳を持つ人の本当の困難』(トーマス・E・ブラウン)(→記事)では、実行機能の障害が脳の神経伝達の不具合であり、遺伝の影響も大きいと論じた上で、そのような脳の機能は生まれたときには十分に発達しておらず、必要な神経ネットワークの形成に人と人とのアタッチメント(愛着)が極めて重要であると述べています。大事な時期は乳児期と、そして、10代から青年期で、「ヒトの実行機能は青年期まで発達途上であるという十分なエビデンスが蓄積されつつある」と書かれています。(pp46-48)。

これを読むと確かに、ある程度、より持続的な<ハード的>な実行機能障害というのが考えられそうですが、しかしこれも、生まれつきで一生変わらないというよりも、育ちの影響が十分考えられそうです。乳児期の養育者との人間関係が大事という点では前回の考察で取り上げた精神分析の見方と一致していて大変興味深いです。青年期まで発達するということは、教育環境や食べ物などを含めた多様な経験や環境との関わりも無視できないように思います。

実行機能に関しては、脳の<発育>の問題として環境や経験に影響された長期的なものと、短期的に起こってきた機能低下の二つが複合的に関わっていると考えられるのではないでしょうか。


このほかのものも含めて、発達障害に見られるとされる脳機能障害が生まれつき一生変わらないかということには、いくつかのレベルがあり、複合的なものだと私は考えます。少なくとも大雑把に三種類は考えられませんか。
1.遺伝的なもの。生まれつきで一生変わりにくい脳の個性
2.養育者や周囲の人々との関わり、環境などに起因する、脳の発育の条件によって形成されたもの
3.免疫異常や自律神経の乱れなどに起因する、一時的な機能低下

脳は一生変わらないとされたのは古い常識で、1990年代に入る頃から脳の可塑性が盛んに研究されているということも、このブログで取り上げました。(→記事自閉症スペクトラムという概念が提唱された1980年代ごろにはまだ、人間は完成された脳を持って生まれてきて、特性は一生変わらないという考えが支配的だったかもしれませんが、その後研究が進んで、脳は生まれた後も発達し続けるし、さまざまな経験の影響を受け続けることがどんどんわかってきているわけです。

脳の機能不全だから何も打つ手がない、という考えは今や全くの誤りであると思います。
脳の機能を良くするために人との関わりを取り戻し、自信を培うことが大事なのです。
こころの発達、成長を取り戻すことで、脳の発達も促進していくという考え方をしていけば、精神分析派の考えと脳科学派の目指す点はかなり一致してくるんじゃないかと思います。


以上、今の時点での私のささやかな考察でした。これからも精進していきたいと思いますので、コメントがありましたらどうぞお願いします。

 
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<番外編>自閉症のふたつのスペクトラム−私なりの考察−

前回とりあげた本『自閉症スペクトラム障害』(平岩幹男)(→記事)のなかに、
自閉症の「スペクトラム」についての平岩氏の考え方を述べた部分がありました(pp43-44)

カナー型自閉症を例にとって説明してあります。同心円を描いて真ん中にコア群、その周りにグレーゾーン群、またそれを囲むようにカテゴリー群を考えて、色の濃さがグラデーションで表されています(p44 図2−1)。

 コア群 = 自閉症にもとづく症状があり、それによって社会生活上大きな困難がある
 グレーゾーン群 = 自閉症の症状によって困難はあるが、サポートによってやっていける
 カテゴリー群 = ほぼサポートなしで社会生活を送っている

カテゴリー群の例として、幼児期にカナー型自閉症と診断されたけれども(療育などによって改善し)小学校の通常学級に入学し学校生活を送っている というようなケースが挙げられ、「こうなればもはや障害として扱う必要すらない」(p.44)と書かれています。しかし、このような例でも、思春期にいじめや不登校などの二次障害を起こしてコア群に戻ってくる場合があるとも説明されています。

とてもわかりやすい図解だったのですが、なにか引っかかる部分がありました。
 
専門家の考える自閉症スペクトラム、ある程度統一された考え方というのは、おそらく、自閉症らしい<症状>の強さ、社会生活の困難さの強さを段階別に並べたものなのだろうと考えられます。
私が描いた下手な絵で申し訳ありませんが、赤(困難が大)〜青(困難が小)と並べてみます。

しかし、なんらかの脳の<障害>が考えられる以上、その脳の障害の程度が、重い人から軽い人まで段階別に並べたスペクトラムというものを理論的には考えることができるはずです。
その障害の程度、認知のアンバランスの具合というのは、一生あまりかわらない、その人の個性として持ち続けるという前提で考えるとします。
脳の障害の程度をマルの大きさとして並べてみます。

しろうと感覚としては、障害が重いほど症状も強く、社会生活も困難であろうと思うじゃないですか。こんな風に。

でも、実際は療育によって多くの子どもが<症状>を改善し、カナー型から高機能自閉症型に変わるようになってきています。それは、同じような脳の障害を持っていても、育て方が違えば、症状の出方が異なるということを表しています。

あくまでも理論の上ですが、見かけの症状が重い順から並べたスペクトラムというものを想定した場合、その並びは、育てられ方の違いによって、もともとの脳の個性の強い順から並べたスペクトラムとは全く違う並びになってしまうと考えられます。

前々回に読んだ『ウィニコットがひらく豊かな心理臨床』(川上範夫)(→記事)では、精神分析的な見方を通して、自閉症を「関係性の体験力の不足ないしは不全」と理解しようとしていました。

また、『子どものこころを見つめて』(小倉清・村田豊久)(→記事)の中では、「本来子どもを理解するというのは、発達障碍であれ、何であれ、全部同じ」(p.86)「人はすべからく、発達障害だなぁ」(p.87)といった表現がでできます。

発達障害といわれている症状のもとになっているのは、育ちの過程で生じたわだかまり、滞りのようなものであり、それが表に出てきていると見るのが、なんとなく自然なように思います。認知の障害があると、育ちに滞りが起きやすいという傾向があるけれど、それを補う療育ができるようになってきたということなんだろうと思います。

以前読んだ本『発達障害のいま』(→記事)の中で杉山登志郎氏が主張されていた 発達凸凹 + トラウマ = 発達障害 という説にも一致します。


自閉症のことがあまりわかっていなかった時代には混同されていた認知障害とこころの発達が、ある程度区別して考えられる時代になってきたともいえるのではないでしょうか。

私の考えをもういちど整理してみます。
自閉症にかかわるスペクトラムには二種類あると考えないかということです。
1.認知の障害が重いものから軽いものへと並べたスペクトラム
2. 関係性の発達の困難の重いものから軽いものへと並べたスペクトラム
認知の障害が重いものでも、関係性を引き出すことのできる療育があるし、たとえ認知の障害が軽くても育ちの環境の具合によっては関係性の障害を引き起こすということじゃないかということです。
今の発達障害の診断基準に従えば、認知の障害ではなく関係性の障害の程度にもとづいて診断が降りることになると思います。

発達障害のきっかけとなりうる脳の発達個性はそれとして名前をつけて区別したらいいし、認知特性に合わせた機能訓練や補助ツールの使用を考えたらいいと思います。もしそれをASDと呼ぶのなら、客観的に認知障害の状態がわかる検査方法を早く確立して欲しいものだと思います。
それとは別に、発達障害という症状を起こす関係性の障害について、家族関係を立て直し、社会との関係を作り直し、自分を確立しなおす作業を、地道にすすめていくべきなのだと思います。

そうすれば、自閉症と関連付けられて名づけられた『広汎性発達障害』という言葉はもう必要ないんじゃないでしょうか。
発達障害は、ASDの人にも、それ以外の人にも、だれにでも起こりうる人間の成長のつまづきであろうと思います。そのようなつまづきに対して、適切な新しい名前をつけ、適切な援助をしていったらいいのだと思います。
特に、認知の障害が軽く個性の範囲であるような人の発達障害に対しては、成長の支援ということが大事だと感じています。

しろうとなりの、私のささやかな考察でした。



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療育の進歩が自閉症への認識を変えていく

 ** 自閉症スペクトラム障害−療育と対応を考える  平岩幹男 **


岩波新書です。自閉症スペクトラムについて初めて学ぶ親御さん向けの内容ですが、社会への一般的な理解を広める意図も感じられます。

既にASDのことを学んだ、初歩的なことはわかっている、と、思っていても、専門家による新しい解説を読むことで、より理解を深めることができるのではないかと、そういう気持ちで読み始めたのですが、実際はそれ以上の認識の変化がありました。

自閉症スペクトラム障害――療育と対応を考える (岩波新書)

自閉症スペクトラム障害――療育と対応を考える (岩波新書)

この本では、かなりのページ数を割いて、カナー型の自閉症の幼児の療育について述べてあります。後半からは、高機能自閉症の子どもや大人への社会生活訓練(SST)について詳しく解説してあります。外来診療や家庭でできるものを中心に述べてあります。

数年前までは、自閉症の療育といえば、構造化など、TEACCHの手法が説明してあるのが多かったように思います。この本は、かなりのウエイトで、ABA(応用行動分析)です。

療育、SSTのどちらについても、心構え、大事なポイントなどがきっちり押さえてあると感じます。家庭での療育しかできない状況でも、読んで実際に役立つ内容だと思います。印象に残ったものを少し羅列してみます。

・勝ち負けにこだわるときは、じゃんけんをして、負けたらすぐ「まあいいか」と言う練習をする(p.140)
・話し始めたら一方的に話すことが多いので、交互に話す練習をする(p.144)

スモールステップで、という説明でも、質問の答えさせ方、落ち着いて座る、などの例を使ってかなり具体的に書いてあります。こうやればいい、こういうやり方はいけない、という基準がわかります。混乱して暴れたときのタイムアウトのやりかたや、いいところがないと思える子どもでも少しずつほめていく目的など、読んで納得できる根拠が示されてしっかり理解できると感じます。

また、自閉症の特徴とされる常動行動やクレーン現象が定型発達の子どもにも見られることがある、とか、二語文といっても、助詞がちゃんと使えているかを見るとか、ASDの三分の一ぐらいの人は目をあわすのが苦手ではないとか、一般的な説明の例外についても述べられています。個別のケースは教科書どおりでないことも多いので、親の立場からはとてもありがたい説明ではないでしょうか。

いろいろな療育方法についての解説もあり、セラピストの選び方もまとめられています。薬物療法の考え方や、進路選択にも触れ、全体的に、きめ細かいアドバイスに満ちていると感じます。

療育方法にはいろいろあって、賛否両論あるようですが、
根拠を持った理論が示され、親が不安を持たずに療育に取り組んでいることじたいが、親子関係そのものにいい影響を与えていくのだろうと、私は思います。


私は今、小さい子どもの発達障害からは離れた立場にありますが、
この本を読むと、いま発達障害はこんな世界になっているのだ、というちょっとした驚きがありました。
今は、言葉を話せない自閉症を抱えた子どもたちでも、適切な療育を行うことにより、普通に小学校に入る子どもが増えてきた、と前書きにあります。
言葉の出ない自閉症についての治らないといった古い考えが通用しなくなり、日本でも積極的に療育を行う時代になってきているんですね。
この本の中でも、「適切な療育が知られていなければ、早期診断=早期絶望に結びつく」(p.111)と書かれているので、実際はまだどこでも療育指導が簡単に受けられる状況ではないのかもしれないですが、少なくとも10年ほど前とはかなり違ってきているように思います。

子育ての世界というのは、その時代を過ぎるとすっかり視野から見えなくなってしまいます。
子どもの療育が進歩していることを知ることは、発達障害そのものついての社会からの認識にも変化をもたらすと思います。「自閉症」という言葉を聞いたときの印象が変わってくるということです。

発達障害という診断があきらめや偏見につながらないで、ひとりひとりが自分に合った努力の方向性をつかむきっかけになる時代が、もうすぐ来ているのかもしれないと思いました。





( 『自閉症スペクトラム障害−療育と対応を考える』平岩幹男/著  2012年12月 岩波書店




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