異常とみなされることで精神の病ははじまる

   ** 異常とは何か 小俣和一郎 **

タイトルには、異常、としか書いていませんが、精神異常とはなにか、という本です。著者は、精神科医であり、精神医学史の研究家でもある方です。

この本を読みながら、私たちが何気なく受け入れている、精神の病気、という考え方の本質を確認する作業をしてみようと思います。

異常とは何か (講談社現代新書)

異常とは何か (講談社現代新書)

この本によると、

精神病が「病気」とみなされるようになった歴史は案外浅く、ヨーロッパでは18世紀から19世紀ごろ、おおむね近代といわれる時代からだといいます。

それまでは、神罰とか悪魔つきとか言われると同時に、神の言葉を伝えるなどの特殊な力を持つとも考えられていました。なんらかの超常現象と考えられていたわけです。
 
近代になって、ある傾向を持った「異常」な人を病気と考えるようになり、その原因を、脳という臓器の病と捉えて治療を試みるようになったわけで、このことを精神医学化と呼んでいますが、(p.94)

しかしながら、日常生活にとって何か不都合なものを次々と「病」に加え、精神医学の対象を生み出していくのなら、それは際限のない精神医学化を生み出すであろう。そこには、精神障害とは何の本来的関係もない事象が含まれる懼れもある(p.96)

それでは、異常とはなんでしょう。この本の問いが浮かび上がることになります。
 
第4章で、正常と異常を図(トポロジー)で考えるとどういうモデルになるかということを検証しています。素朴な考えでは、正常と異常は対立していて連続性はないようにも思えますが、境界線はどこかということを突き詰めると、スペクトラムモデルに行きつきます。

自閉症スペクトラムASDの名称に使われている、スペクトラムとはまさにこのモデルを採用しているわけですよね。

スペクトラムモデルは、精神分析の考え方と密接な関係を持つようです。フロイト以前の精神医学は「異常」な人間には遺伝的な欠陥があるという前提で考えられていて、優生学の見地から精神障害者安楽死を求められたりしています。この時点では、異常と正常ははっきり区別できるものと考えられていました。精神分析学が育っていく過程での「発達上の障害」という考えを持ち込んだことで、正常と異常の間には移行帯が想定されるようになっていくわけです。
 
この本では、これでは飽き足らなくて、メビウスの輪モデル(p.169)というのを新たに考えています。正常とか異常というのは、もともと多数派と少数派の関係であって、時代や文化背景が変われば入れ替わることもあるということ(第1章)、正常さが過剰になると異常になること(第3章)を加味するとこうなるようです。正常と異常は表と裏で、かつ連続しているということを表すとこうなるのではないか、というのが著者の考えのようです。

特に、メランコリー性格といわれる、真面目で几帳面で融通の利かない性格について論じています。この性格を持つ人は適応的で優秀で、世の中に役に立つ人たちなのですが、度が過ぎると、異常になります。
精神医学症状である「うつ」「不安」「緊張」「恐怖」も、正常な心理状態が過剰に起こることと説明できます。幻覚や妄想でさえ、ごく弱いものが短時間出現することは誰にでもありえることだといいます。異常というのは、質的なものではなくて、量的なもの、過剰という考え方で説明がつくのではないか、というんですよね(第3章)。

精神の病という状態を、なんらかの特殊な遺伝形質とか、なんらかの欠損といったその人の特殊な属性によるものと捉えてしまうのがそもそもの間違いで、誰にでもあるものが過剰にある状態と見るべきなのではないか。だから、正常の先に異常があり、その裏に正常があるといった、メビウスの輪になり、異常と正常が両端にあるスペクトラムとも違うという議論になっているようです。

ちょっと難しいです。わかったようなわからないような。

小難しい議論が続き、堅苦しい印象の本なのですが、著者がこの本で言いたかったことの少なくともひとつは、うつや不安などの症状を病的として徹底的に撲滅するのが治療の目的ではないということだったのではないかと思います。それは誰にでもあるもので、なくすのではなく、ほどほどに収めることが治療であると。

世の中には「反精神医学」といって、精神医学はレッテル貼りだけで治療は無意味であると主張する人たちがいるのですが、それはそれで違うとこの著者はいいます(p.102)。それでも、時代の価値観や文化の違いによって、同じ特徴を持つ人たちが病的とされたり高い評価を得たりしていることを考えれば、異常と決めつけ正常化を求めることの暴力に気づくべきだということなのだというのです。

少なくとも、近代に発する今日の精神医学は、自らが規定する「異常」というものに対して、それをただちに、一律に、そして無反省に治療のターゲットとするのではなく、多少の熟慮と寛容さをもつべきではないだろうか。(p.230)

 

振り返ってわれわれ俗世間での精神障害者に対する見方を考えてみれば、異常と正常の間になんらかの線引きを行って対比することで今の社会・今の文化の秩序を守っている部分があるのだろうと思います。それは社会的な意味での線引きであって、本質的なものではないといえるのかもしれません。

このブログでは長い間発達障害について考えてきたわけですが、発達障害は歴史の中で、育て方の問題だといわれたり、脳の機能障害といわれたり、スペクトラムといわるようになったり、いろいろな学説の変遷をたどってきています。この本の議論を見ていると、それぞれの学説についてわれわれ一般人が真剣にどうのこうの言ってもしかたがないような気がしてきました。
当事者やその家族は、学術的な論争には距離をとり遠巻きに眺めながら、今ここにある、自分たちが抱える問題と取り組むことに専心すべきなのかもしれません。
精神の病が社会的に規定され本質的なものでないとするならば、当事者はもっと自分自身に自信を持っていいのではないかと思います。排除され自尊感情を傷つけられることで起こる辛い症状を克服し、自分らしさを確立することを目指すべきなのでしょう。

おそらく、知能指数などで評価できる部分、あるいは多動、学習障害、対人関係上の障害などによって標識付けられている「発達障害」の部分などは、いずれも精神機能全体のごく限られた部分への評価に過ぎないのではないか。その部分において過少が認められるとしても、それ以外の部分では何らかの精神機能の過剰として評価すべき点があるのではないだろうか。もちろん、われわれはそうした評価の総合的で統一的な軸をいまだ用意できていない。(pp.155-156)

精神医学はまだまだ途上にあります。俗世間の私たちこそ、精神医学の成果を「多少の熟慮と寛容さをもって」眺める目を持つべきなのかもしれないと思いました。


( 『異常とは何か』 小俣和一郎/著 2010年4月 講談社現代新書2049



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