2023年の私から
2023年1月にこの記事を書いています。フロびぃです。
このブログ「雨の日は本を広げて」は、2013年まで更新されていたものです。当時、発達障害というものを理解することを目的にいろんなジャンルの本を並べ、本の紹介というよりも、自分なりに考えたことを書いていました。10冊ごとにまとめ記事も載せていました。
あれから10年。ダイバーシティという言葉は世の中に浸透しましたが、発達障害への世間の理解がすすんだかというと、どうなんでしょう。発達障害への理解はそう簡単ではなくて、残念なレッテル張りの場面に出会うことも多々あります。また、愛着障害やトラウマによる障害との重なりが明らかになるにつれ、純粋に発達障害の部分を切り分けることが難しくなったので、理解はより難しくなったと言えるかもしれません。
しばらく公開を停止しておりましたこのブログを、期間を限定して公開することにします。コメント、ご感想などは、現在継続中の私のブログ「水溜りに映る虹と、風と」の方によろしくお願いします。
このブログで読んだ本を並べてみました
100冊の本を読んで発達障害について考えてきました。私の中ではブログ全体がひとつのブリコラージュ、パッチワークのようなものです。最後に表紙を並べて全体を眺めてみたいと思います。
画像ははてなキーワードのページにリンクしています。
記事が読みたい方は、はてなキーワードからたどることもできますし、
画面上部の記事一覧リンクからも検索できますのでご利用ください。
この続きは、新しいブログで展開します。
100冊を総覧し振り返りながら、総括的なことも書いていきたいと思っています。
しかしながら、新しいブログの全体としては、発達障害というテーマからいったん離れます。視野を広げて、さまざまな話題について書いていく予定です。よかったらお立ち寄りください。
新たなブログはこちらです→ 水溜りに映る虹と、風と(フロびぃ)
長い間、ご愛読ありがとうございました。
☆レビューのレビュー(その10)☆発達障害からみえるポスト・モダン
おかげさまで、目標の100冊を達成できました。ありがとうございます。
最後の一冊は脳の多様性についてでした。(→記事)
生物や文化の多様性については様々なテレビ番組などでも紹介され、私たちの認識も少しずつ変わってきています。思い出していただきたいのですが、25年ぐらい前までは、ヨーロッパの文化は進んでいて他の国は遅れている、人間が全ての生物の中で最も優れているという考え方でした。劣等国とか下等動物などという言葉づかいが当たり前だったのです。
今は、それぞれの文化に特色や良さがあることを認め合うのが当たり前だし、生物が多様でそれぞれの役割を果たし地球環境が調和しているというと考えるのが普通です。
この考え方は、大きな流れとしてはポスト・モダンという枠に入るのだと思います。モダンとは近代のことで、ポストというのは「…の後」という意味です。つまり、近代的なものを超えていく、新しいものの考え方です。
この10冊の中には、ほかにも、ポスト・モダンな考え方が出てきました。
間主観性や間主体性といった「あいだ」の考え方です。
近代では、ものを細かく分析すること、客観的に対象を観察したり実験したりして研究することがさかんに行われました。動物や人間は生き物ですが、その身体がどのように働くのかを調べるために、死体を解剖していました。
人間もひとりで生まれひとりで成長するかのように記述されてきました。生きている人間と人間の「あいだ」が研究されるようになったのも、近代の枠組みを超えていこうとしていることの現れと読むことができます。(→)
そして、このブログで少しずつ扱ってきたもうひとつのポスト・モダンに、
身体性 があります。
最初は、脳を整えるのに身体を動かすのがいいのかな、というような軽い気持ちで取り上げたのですが、アントニオ・ダマシオの研究(→)や、イタリアの新しいリハビリ理論(→)、脳腸相関(→)などを知るにつれ、身体の感覚と脳を切り離して考えていてはこころの問題を理解することも解決することもできないのだと考えるようになりました。
このブログでは、脳の可塑性(→)やエピジェネティクス(→)についてもとりあげました。
20年前に科学の常識とされていたことが、通用しない時代になっています。
発達障害についての理解のされ方も変わってきています。
精神障害全般についても、少しずつ変わってきています。
いや、病気や障害というものについての考え方が、変わってきています。
脳と身体の関係だけでなく、からだとこころの関係についても、新しい見方が生まれつつあります。
しかし、振り返ってよくよく考えてみれば、
これらの「新しいこと」は、私たち日本人にとって特に新しいことだったのでしょうか。学問を離れた実際の社会生活の中で、日本人が古くから現実に対処してきたやり方の中に、多様性や間主体性や身体性の考え方がすでにあったのではないでしょうか。ポスト・モダンとは、西洋の考え方と私たちの考え方がやっと同じフィールドで論じられる時代になっただけなのではないでしょうか。
私は発達障害についての専門家のまことしやかな説明に、どこか腑に落ちない、納得がいかないという感覚をずっと持ち続けてきました。本を読んでレポートしながらも、全てをそのまま受け入れられない気持ちがありました。さまざまの角度から語られた発達障害やその周辺の話題を集め、パッチワークのように並べてみようとしていました。
発達障害というものは、所詮、西洋からの輸入品なのだと思うのです。それも20世紀特有の、標準からはずれたものに名前をつけるという考え方の産物です。人為的に、文化的につくられた標準からはずれたものにです。
これからは、私がぐずぐず考えなくても、発達障害というものは新しい見え方でもっとわかりやすく語られていくんじゃないかと思います。
私は、新しいブログに移って、視野を広げてさまざまのことを書いていきたいと考えています。長い間ご愛読ありがとうございました。
(これで終わりではありません。次回の更新で、新しいブログのアドレスへのリンクを張りますのでお楽しみに)
標準的な脳などどこにもない
** 脳の個性を才能にかえる 子どもの発達障害との向き合い方 トーマス・アームストロング(アメリカ) **
障害じゃなくて個性と考えましょう、というようなフレーズをよく聞きますが、どこまで本音なのかわからないことがよくあります。
優劣じゃなくて違いなのだと謳っていても、多数派に近づきあわせるためのサポートしか用意されていないこともよくありますね。
この本は、アメリカの特別支援教育の現場から、脳の個性、多様性について書かれた本で、原題は、
THE POWER OF NEURODIVERSITY
ザ・パワー・オブ・ニューロダイバーシティ 直訳すれば、「脳の多様性」です。

- 作者: トーマス・アームストロング,中尾ゆかり
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2013/06/22
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (1件) を見る
いちばん印象に残ったフレーズは、
「人間の脳は機械ではなく生態系に似ている」(p.26)です。
ニューロンのグループが環境の刺激に応じて優位をめぐる競争をくり広げている。(中略)人間ひとりひとりの脳は、むしろ、同じものがふたつとない雨林に似て、成長や腐敗、競争、多様性、淘汰に満ちている(p.28)
脳は森のようなものだというたとえからイメージを膨らませました。確かに、森にはいろいろあって、針葉樹の森、広葉樹の森、熱帯雨林など、それぞれにタイプがあります。また、同じ広葉樹の森でも、どの種類の木が多いか、下草は何が生えているか、どんな昆虫や動物が棲んでいるか、似ているようで少しずつ違います。
細胞が増えたり減ったり、バランスを保ちながら生きているのが人間の脳だから、ひとりひとり違っていて当たり前なんだということですよね。
このような考え方は一昔前までは取られていませんでした。
脳は機械のようだと考えられてきたし、今でもそのように漠然と考えている人が多いと思います。定型発達という標準的な脳があり、それと違っている脳は<障害>、機械に例えるなら故障や不良品のように考えられてきました。
しかし、私たちが当たり前のように思ってきた<標準的な脳>という見方も、実は200年足らずの歴史しかなかったということに気づきます。
おもしろいことに、『オックスフォード英語辞典』を見ると、「normal〔ふつうの〕」という言葉が一般的に使われるようになったのは、ようやく1840年になってからだ。(p.261)
統計学によってデータの平均値を求め、それを<ふつう>とみなすやり方は19世紀に始まっています。大量の工業生産品を作る、農産物や海産物を流通経路に乗せる、といった現代の経済活動は平均値に近いものと規格外のものを分けることで成り立っているし、ついついなんにでも同じような考えが当てはまるような気になってしまうのですが、ちょっと立ち止まって考えると、自然な状態のものにこれを当てはめるのは無理がありますよね。
人間の脳というものは元来、ひとりひとりが違っている個性的なもので、それを統計的に平均を出したところで、その平均値を持った典型的な<標準>人間がどこかに存在しているかというと、そんなものはないのだといいます。
確かに、シベリアの森と、アフリカの森と、アジアの森を平均して標準的な森としたとして、そんなものは頭の中でこしらえた非現実的なものでしかないです。
そして、連続して分布するなかの真ん中の方が望ましいとか、優れているとか考えるのも、偏った見方であろうと思います。
この本では、ADHD、自閉症、ディスレクシア、気分障害、不安障害、知的発達の遅れ、統合失調症について、それぞれの個性的な脳の特徴を検討し、それを社会の中でどう活かすか、また、活かすために社会をどう変えたらいいかといった視点で論じていきます。
違っていていいのだ、極端に違っていることに必要以上の引け目を負う必要はなくて、それなりの生き方を求めていけばいいのだというメッセージが全体から伝わってきます。
障害がないといっているのではないです。極端な脳であることで、困難は実際に生じます。早期発見も治療も必要です。でも、そのような脳を持つことによる困難と、劣等感を持ったり差別されたりすることによって生じるマイナスの面とは区別して考えたらいいということなのだと思います。
ダイバーシティ、多様性という考え方は、統計的な平均とそれ以外という構造で考える古い頭ではついていけない考え方です。ずっと染み付いてきた考え方を変えるのは大変ですが、新しい時代の潮流のひとつとして見えてきているという感触があります。
忘れてはならないのは、人間の脳は機械ではないし、一生変わらないものでもないということです。環境に適応し、あるいは自分から環境に働きかけて環境を変え、積極的に生きていくことで、脳はより自分らしい脳として整っていくのだと考えられます。
ダイバーシティの考え方を取り入れると教育の姿はまるで違ったものになるだろうと思います。社会での人々の働き方も変わっていくだろうと思います。そのなかで、発達障害も精神障害もこれまでとは違う角度から議論されていく時代が、もうすぐそこまできているように思いました。
( 『脳の個性を才能にかえる 子どもの発達障害との向き合い方』 トーマス・アームストロング/著 中尾ゆかり/訳 2013年6月 NHK出版 THE POWER OF NEURODIVERSITY by Thomas Armstrong, PhD)
<番外編>自閉症を関係性の障害と考えると
前回、前々回と、自閉症は人と人との関係性の障害かもしれないというような話を書いているのですが、
関係性なんてものに実体はないんじゃないかという感想を持つ人もそれなりいいらっしゃるんじゃないでしょうか。
関係性は目に見えないし、とらえどころがなく、客観的につかめない。
そのようなものを相手にするのは、「科学」ではない???
でも、いったん関係性というものが存在すると考え、それを基本に考えると、つじつまがあうことがたくさんあるような気がしてくるんです。
雑誌『こころの科学171』今の時点の最新号は、成人期の発達障害を特集していますが、この中には現場からのさまざまな報告が上がっています。
何人もの精神医学の専門家が、普通に生活している成人の中に多数、ASDの特性を持ちかつ障害となっていない人たちがいることに言及しています。本田秀夫氏が「非障害自閉症スペクトラム(ASWD)」と呼ぶこれらの人たちは、乳幼児期から支援され二次障害を予防できたASDの人たちとほぼ同じ状態だといい、生まれ持った素因がよく似ていても、条件さえ整えば社会適応に困難を生じない成長が可能であることを示唆しています。
それとは別な話で「一過性の発達障害」という表現もありました。
調子が悪く混乱している状況の時には顕著に思えた発達障害としての特徴が、しばらく時間がたって落ち着きを取り戻した時には目立たなくなる。(p.90,福田正人)
すべての人は発達障害と定型発達の両方の特徴を持っている(p.64-65,村上伸治)とも、天気予報のように、あなたの発達障害の可能性は○○%という診断にした方が良い(p.82,斎藤環)ともあります。
ASDの素因がある程度あったときに、発達障害かどうか、を決めるのは、置かれている状況や周囲との関係によって決まっていると考えた方がすんなりいくように思えてならないのです。
話が飛躍していてもう少し詰めていかなければならないことは認めますが、方向性としてはこっちのように思うのです。
また、別の本『赤ちゃんと脳科学 (集英社新書)』(小西行郎)には、こういうのもあります。
いわゆる「テレビによる言葉の遅れ」。3歳過ぎになっても言葉が出てこない子どもを、テレビ漬け生活を止めさせたらどんどんしゃべるようになるという現象なのですが、この本以外でも何人かの方が書いているのを見ました。
テレビの他に、英語のCDを一日中聞かせていて同じような現象が出たなどの報告もあります。
本の著者の小西行郎氏は、この現象を自閉症と区別しています。自閉症を持って生まれていないのに、一方的な音声を聞かせていると言葉が遅れてしまうといいます。
この本では、親世代のなかに、CDやテレビの音を聞かせることが言葉や知識の獲得に役立つという誤った認識が広がっていることを指摘しています。乳児のテレビやCDのほか、幼児期の読み聞かせなども、内容よりも「気持ちのやりとり」が大事なのだということを強調しています。
「気持ちのやりとり」は、目に見えません。客観的には測れないですが、
これが、人を人として成長させるためのキーワードなのだということなんです。
目に見えないものを相手にするのは、20世紀的な考え方での「科学」ではお手上げです。そういう<測れないもの>は無視することにしてきたんですよね。
別の見方をしないといけないんだと思います。
科学であろうがなかろうが、子育てにも人生にも大昔から情緒的な交流はあり、人と人との関係性はありました。
それを研究から締め出していた科学の方がヘンでしょう。
関係性という視点に立つと、発達障害そのものが、いや、精神の障害ぜんたいが、まったく別な風に見えてくるのかもしれないという予感がしています。
<番外編>何を学習するかが遺伝している
関係性の発達を扱った本を2冊読みましたが、読んでいて思いだしたのが、
このブログのずいぶん最初の方で読んだ、
『人間は遺伝か環境か?遺伝的プログラム論 (文春新書)』(日高敏隆)です。
(→記事へ)
鳥のひなを親鳥と隔離して育てるとさえずりを覚えないが、他の鳥をあてがっても別のさえずりは覚えない。何を学習するかだけが、遺伝している。
遺伝的に決まっているのは予定表だけで、プログラムを実行していくのは環境である、というような内容でした。
人間は社会の中で育つようにできていて、環境が整わなければ遺伝的な特質を開花することができないのだ、と。
これまでの教科書的な発達心理学の理論では、子どもはガラスケースに入れておいても勝手に発達してしまうような印象を受けます。誰がどんな育て方をしようと、時期が来ればしゃべりだし、算数ができるようになり、抽象的な概念を理解して大人になっていくように錯覚してしまいます。
でも、実際の子どもは周囲の大人と情緒的に交流し、伝えたいという気持ちを育てることではじめて言葉をしゃべりだすのであり、たくさんの年長の人間との暖かい交流を通して学習し社会の一員となっていくというのは、子どもを育てたことのある人なら当然だと思うのではないでしょうか。
人間関係というものは年月の積み重ねによって育まれるもの、例えていうなら漬物のぬか床のようなものじゃないかと思います。大人の中にも情緒的交流が豊かに育まれている社会の中ではじめて子どもはすくすくと育っていけるといえるのかもしれません。
そう考えていくと、現代の子育て事情には厳しいものがあります。
『育てる者への発達心理学―関係発達論入門』(小倉)(→記事)には、お母さんとだけうまく行っていない例が出てきましたが、なるほどと思ったのは、この例であっても医師によって自閉症と診断されていたと記述されている点です。自閉症の診断は子どもの状態を診断基準に当てはめることで可能です。原因を問わずに診断できるのです。
しかし、自閉症の定義としては環境要因によるものは含まないことになっているので、これは本当は自閉症じゃなかった、ということになります。
ややこしい話です。
しろうとだから思い切って言いますが、
診断のやり方じたいに大きな矛盾を抱えているように見えます。
『自閉症の関係障害臨床―母と子のあいだを治療する』(小林)(→記事)では、注意深く努力して母子関係を作ることで改善していく例を見ました。この子どもたちは生まれつきの感覚の過敏性を持ち、外界の関係のとりかたの最初のほうでつまづいてしまったのだと考えられています。
適切な療育を行うことでそのような育てにくい子どもとも交流の回路をつなぐことができ、その子が本来持っている遺伝的な素質を開花することができたとみなすことができるように思います。
となれば、似たような過敏性を持った子どもでも、たまたま環境がうまくいった場合はたいした問題を起こさずに育っているのだと考えられないでしょうか。
自閉症の生まれつきの素因の中に、言葉を覚えられない素因や社会性を獲得しにくい素因というようなものを想定するのはおかしいということになります。
遺伝しているのは、何を学習するかというプログラムだけだからです。
『自閉症の関係障害臨床』(小林)でも自閉症成因論について論じた部分があります。器質因と環境因の複雑な絡みあいによるものでどちらも特異的な要因ではないのではないかと書いています(pp.277-278)。生まれつきの特別な素因でもないし、特殊な育て方のせいでもない、さまざまな条件が絡み合ったときに自閉症という状態が出現するのだと。
私はこの見方にかなりの共感を覚えます。
おそらくその条件の絡み合いは何通りもあって、今後分類が可能になっていくかもしれません。今の段階では、結果としてそのような状態になったものについている名前が自閉症であるというそれだけのことなんだと思います。
自閉症が一生つきまとう遺伝的な欠陥であるかのような理解のしかたはもうしなくていいように思います。その代わり、偶然が積み重なった事故のようなものだと理解できるかもしれません。
それはそれで重たい現実だけれど、より正しく理解することによって対処のしようがあるかもしれないです。
自閉症の豊かな世界とそれを活かす子育て
** 自閉症の関係障害臨床 母と子のあいだを治療する 小林隆児 **
親子の関係性の発達という観点から自閉症の治療を試みた記録が3例、収められています。
東海大学健康科学部に設置したMIU(母子治療室)で、母と子の遊びに共同治療者がかかわった数年間を記録し分析しています。
自閉症と診断された子どもたちが明らかに変わっていく様子もさることながら、子どもたちの豊かな感性を捉え記録されていることが私には印象的でした。

- 作者: 小林隆児
- 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
- 発売日: 2000/12
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
治療の観察記録に先立って理論面での解説があります。
特に印象に残った言葉が、「相貌的知覚」です。
人間には本来環境世界のあらゆるものに対して、まるで生命が宿っているかのように感じ取る知覚の働きを有しています。森羅万象すべてに生命が宿っているという知覚のあり方です。乳幼児や古代人にはこのような知覚の特徴が生々しい姿で存在しています。(p.27)
相貌的知覚というのは、特殊なものではなく、ふつうの大人でも持っているものです。
同じ漢字なのに、活字の大きさが違うだけで力強いとか弱々しいと感じたり、ぎざぎざの直線や丸いかたちの羅列に、質感や動きを感じたりする例が示されています(p,27)。
自閉症の人が成人期になっても持っている独特な知覚のありかたには、相貌的知覚が深く関係しているといいます。生来的に知覚が敏感であることに加え、この本が解説を試みているのは、愛着や基本的信頼感とのかかわりです。
自閉症の人たちは外界の刺激に圧倒されるような感じ、圧迫感、迫害的な感じを持つことが多いのですが、これは「愛着にもとづく安全感がしっかりと育まれていないから」(p.23)だと論じています。健康な子どもは養育者との愛着関係ができているので自己感が膨らみ、気持ちが外へ向かって外からの刺激に好奇心を持っていきいきと関われるのに対し、愛着関係の乏しい状態では、外界への不安や警戒心が先に立つというのです。
どのような刺激であってもその多くが不快な色彩を帯びてくるのです。(p.24)
遊具などをそろえた母子治療室で50〜60分、週1回を基本に行った治療の実際は、そのような自閉症の幼児の知覚のありかたに寄り添い、母と子の基本的な信頼感を育んでいく試みです。
周囲の人との接触を避け、感覚刺激に没頭しているように見えた子どもが、母親に甘えるようになり、少しずつ言葉らしいものでコミュニケーションできるようになり、見立て遊びをはじめたり思いやりの態度を示したりし始める様子が詳細に記述され、解説されています。
この本が書かれた時点では(2000年に出版されています)MIUで集中治療を行った28例のうち80%に改善がみられたとされています。
相貌的知覚については興味深いエピソードが記述されています。
木の葉をじっと見て没頭する行動があった子どもが、治療が2年以上進んできた5歳すぎの時点で、木の葉を県のかたちに見立てて母親に○○県、△△県などと言わせるようになってきたことです。そのとき母親は、だだぼんやりと木の葉を見ていたように見えていた子どもが、実は木の葉の形の中に自分の好きなものとの類似を見つけて楽しんでいたのだろうかと想像し、自分自身が小さいとき、壁のシミなどをじっと見て動物に似ているなどと盛んに大人に語りかけていたことを思い出しています。
子どもが大人の世界に入り込もうとし、大人が子どもの世界に入っていこうとする、方向性の交差が母子交流を生みお互いの心地よい情動を生み出していることを高く評価しています。(pp.152-153)
最終章には、自閉症の子どもが「まるで人間的な心を有しないかのような捉え方が平気で行われ、研究対象として扱われてきている」(p.280)ことに対する強い疑問が書かれていました。彼らの内面の奥深いところには人を求める強い愛着要求があり、情動的な結びつきを得られることで生きる勇気と力を得るのだといいます。
心の理論、実行機能、感情認知などの諸説は、一過性の現象を捉えたもので、自閉症の問題の本質は、子どもと私たちの「あいだ」に潜み、その姿は刻々と変容し続けている(p.280)のではないかと結ばれています。
私はかねてから、「自閉症的なもの」の描写に極端があると感じてきました。人間に関心がなく、モノばかりを追いかける、ハートがないという描写の仕方と、芸術的で神秘的な世界との豊かなかかわりを持つという描写の仕方。二つの描写は矛盾するように感じられていたのですが、やっと謎が解けたような気がしています。
彼らは人間に関心があるけれどうまく接近できないでいるのだし、単調なものが好きなのではなくて、それらのなかに豊かな想像の世界を持っているのだということ。そのような見え方は人間の誰もが持っていて理解可能であるし、交流を持つことができるということ。
そして交流をもてたときから、自閉症の人間も社会性を成長させることができるということ。主たる愛着対象である親の役割はかなり大きいといえます。
多少古い本だったので、その後の研究がどのように進んだのか興味をそそられました。機会をみてまた報告したいと思います。
( 『自閉症の関係障害臨床 母と子のあいだを治療する』 小林隆児/著 2000年12月 ミネルヴァ書房 )