<番外編>自閉症を関係性の障害と考えると

前回、前々回と、自閉症は人と人との関係性の障害かもしれないというような話を書いているのですが、
関係性なんてものに実体はないんじゃないかという感想を持つ人もそれなりいいらっしゃるんじゃないでしょうか。

関係性は目に見えないし、とらえどころがなく、客観的につかめない。
そのようなものを相手にするのは、「科学」ではない???

でも、いったん関係性というものが存在すると考え、それを基本に考えると、つじつまがあうことがたくさんあるような気がしてくるんです。

こころの科学171号:成人期の発達障害雑誌『こころの科学171』今の時点の最新号は、成人期の発達障害を特集していますが、この中には現場からのさまざまな報告が上がっています。

何人もの精神医学の専門家が、普通に生活している成人の中に多数、ASDの特性を持ちかつ障害となっていない人たちがいることに言及しています。本田秀夫氏が「非障害自閉症スペクトラム(ASWD)」と呼ぶこれらの人たちは、乳幼児期から支援され二次障害を予防できたASDの人たちとほぼ同じ状態だといい、生まれ持った素因がよく似ていても、条件さえ整えば社会適応に困難を生じない成長が可能であることを示唆しています。

それとは別な話で「一過性の発達障害」という表現もありました。

調子が悪く混乱している状況の時には顕著に思えた発達障害としての特徴が、しばらく時間がたって落ち着きを取り戻した時には目立たなくなる。(p.90,福田正人)

すべての人は発達障害と定型発達の両方の特徴を持っている(p.64-65,村上伸治)とも、天気予報のように、あなたの発達障害の可能性は○○%という診断にした方が良い(p.82,斎藤環)ともあります。

ASDの素因がある程度あったときに、発達障害かどうか、を決めるのは、置かれている状況や周囲との関係によって決まっていると考えた方がすんなりいくように思えてならないのです。

話が飛躍していてもう少し詰めていかなければならないことは認めますが、方向性としてはこっちのように思うのです。

また、別の本『赤ちゃんと脳科学 (集英社新書)』(小西行郎)には、こういうのもあります。
赤ちゃんと脳科学 (集英社新書)いわゆる「テレビによる言葉の遅れ」。3歳過ぎになっても言葉が出てこない子どもを、テレビ漬け生活を止めさせたらどんどんしゃべるようになるという現象なのですが、この本以外でも何人かの方が書いているのを見ました。
テレビの他に、英語のCDを一日中聞かせていて同じような現象が出たなどの報告もあります。
本の著者の小西行郎氏は、この現象を自閉症と区別しています。自閉症を持って生まれていないのに、一方的な音声を聞かせていると言葉が遅れてしまうといいます。

この本では、親世代のなかに、CDやテレビの音を聞かせることが言葉や知識の獲得に役立つという誤った認識が広がっていることを指摘しています。乳児のテレビやCDのほか、幼児期の読み聞かせなども、内容よりも「気持ちのやりとり」が大事なのだということを強調しています。

「気持ちのやりとり」は、目に見えません。客観的には測れないですが、
これが、人を人として成長させるためのキーワードなのだということなんです。

目に見えないものを相手にするのは、20世紀的な考え方での「科学」ではお手上げです。そういう<測れないもの>は無視することにしてきたんですよね。
別の見方をしないといけないんだと思います。

科学であろうがなかろうが、子育てにも人生にも大昔から情緒的な交流はあり、人と人との関係性はありました。
それを研究から締め出していた科学の方がヘンでしょう。
関係性という視点に立つと、発達障害そのものが、いや、精神の障害ぜんたいが、まったく別な風に見えてくるのかもしれないという予感がしています。



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