◆番外こらむ◇”原因帰属の誤り”を学んで思うこと

50歳手前になって、放送大学大学院で心理や教育を学んでいます。
今期学んだのは、『現代社会心理学特論』(森津太子)で、比較的新しい社会心理学の知見を網羅的に学びました。
私が大学を卒業したのは1980年代の半ばですが、教科書に出てくる研究のほとんどがその後のものだという話です。自分が大人として生きてきた時代を振り返りながら確認するような学び方になりました。
 
学んだ中で、印象に残ったもののひとつに、”原因帰属の誤り”があります。

原因帰属とは、原因を何の”せい”だと考えるかということを指しています。いつもは優しい人が今日はとげとげしい。この前私が何か悪いことを言ったせいなのか、その人がたった今誰か別の人とケンカしてきた後に出あったせいなのか、たまたま体調が悪いのか、何が原因なのか推論しますよね。
 
教科書では1960年代の研究から順に、最終的には、1990年代ぐらいの研究までを学んだのですが、大きく結論として、人間の原因帰属の推論というのは、かなり大雑把なものだといえるようです。綿密に状況を分析して正確な結論をだしているとは到底言いがたい。
”基本的な帰属の誤り”というのがあって、私たちには、ある事象の原因を考える際に、行為者の内面属性を重視しすぎる傾向があるといいます。他者の行動を見たとき、意図せずともその人の内的な特性を自然に推論してしまう、これは自動的な(ほとんど意識しない)過程で、余裕がないときには、状況のせいだとはほとんど考えない、という新しい研究もあるのだそうです。

つまり、人が何らかの行動を起こしてしまうのは、本当は周りの状況のせいだったとしても、それを見た人は、その人の特性(知性や性格など)のせいだと考えてしまいやすい傾向があるということなんですよね。
 
これには例外があって、自分の失敗だけは周囲の状況のせいだということになりやすいというおまけもついています(笑)。

 
私は発達障害にかかわるいろんな事例を見聞きしてきましたが、これに絡んで複雑な思いがあります。
なんらかの行為が観察されたとき、それを安易に発達障害のせいにしているんじゃないかと疑うケースが多すぎるように思うのです。
 
いじめに遭ったのは、不登校になったのは、発達障害であるからである。
抑うつになったのは、仕事を辞めたのは、発達障害であるからである。
 
みたいな、おかしな議論がまかり通っているように思えてならないのです。
 
なんらかの事象が起こってくる原因は、単純にひとつということはありえません。なんらかの複数の原因があるタイミングで絡み合って起こっているわけで、発達障害の特性というものが関わっていたとしてもそれは原因の一つに過ぎないはずです。
 
こう考えるのは、ひとつには私自身が若いときに、ソフトウエアのエンジニアもどきの仕事をしていた経験に基づいています。ソフトウエアが順調に動かない、不具合があるというときに、操作ミスなのか、アプリケーションソフトのバグなのか、基本ソフトとの相性なのか、ハードウエアとの相性なのか、そもそもスペックがユーザのやりたい仕事に合っていないためなのか、厳密に調べることを毎日やっていました。
 
エンジニアにも思い込みというのはあって、実際は全く違う原因だったということは多々ありました。
思い込みを乗り越えるためには、数学の問題を解くときのような冷静で緻密な思考が必要でした。
 
 
いじめでも、不登校でも、会社を解雇されたことでも、抑うつでも、今人生の何らかの問題を抱えていて、それを、発達障害でした、と言われて、ほっとしたという話をわりと良く見聞きします。
ほかの人はいじめられないのに、ほかの人は仕事を続けているのに、自分だけなぜ、というときに、発達障害でしたというのは、原因がわかってほっとした、という話なんでしょう。自分のせい、ではあるけど、自分が努力が足りないせい、じゃなくて、障害のせい、であることで、楽になれますよね。

でも、それは一つのステップであって、本当に問題を解決するためには、状況を分析して改善していくことがどうしても必要になってくるのだと思います。それで発達障害がわかったというのはまったくおまけであって、問題が起こっていることの本質は、発達障害であることと無関係である可能性も十分あるはずなのです。
 
なんらかの問題と思われる行動を見て、その人を発達障害だと推論し、「ほっとするから」と診断をすすめるような人までいます。ほっとするから、を、他人に勧めるのは、筋が違っていると思います。原因がわからないのは気持ちが悪いので、私たちは正しいか正しくないかに構わず、なにかのせいにして安心する心理があります。極端な話、原因は何でもいいんです。霊が取り付いていても、家の方角が悪くても、墓や印鑑の材質のせいでも、なんでもいいんですよ。もっともらしい人から、原因はこれだといわれれば、私たちは安心します。自分のせいじゃないと、ほっとします。

でも、それは、その推論が正しいかどうかとは関係ありません。
  
発達障害と診断され、一次的にほっとしたあと、深い抑うつ状態に陥るケースもよく見聞きします。自分の努力不足ではないが、自分が原因となると、状況に働きかけることが難しくなってしまうということもあると思います。物事の原因は単純に一つということはないのに、私たちは、何らかの原因を推論して安心したいという心理を持っています。他人も自分も同じ誤りの中に落ち込んで、思い込みの中でぐるぐる回ってしまうことを避けるには、まず、人間にはそういう傾向があるということを知る必要があるように思います。
 



放送大学大学院教材『現代社会心理学特論』森津太子 第4章 社会的推論 を参考にしました



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