<番外編>相容れない価値をバランスする感覚

一つ前の記事で取り上げた、『いまを生きるための思想キーワード (講談社現代新書)』(仲正昌樹)では、もうひとつ気になった項目がありました。

「ケア」という項目です。

倫理学では、「ケアの倫理」は、「正義論」と対立するか、相互相補関係にある(p.89)とあります。

この「正義justice」については、哲学では日本語の正義より少し固い意味で、ルールに従うこと、紛争を処理すること、個々の権利を不正な侵害から守ること、といった意味合いを持つことが解説されています(p.5)。正義論や権利論は、個人の主体性、自律性を重んじ、ひとりひとりの権利が自由に行使できることが良しとされる考え方です。

それに対して、「ケアの倫理」は、人は完全に自立することはできず、身近な他者との支え合いの中で生きている、という前提から出発する考え方とされます。家族や恋人、友人など、ごく近しい人同士の関係、「親密圏intimate sphere」の中での関係性に焦点を当て、絆があることそれ自体に価値を置く、と(p.90)。

日本語の感覚ではどちらも「正しさ=義」の範囲のようにありますが、哲学の世界ではこの二つを区別するし、相容れない別のものとして扱うわけです。西洋人の発想はこうなっていると理解するといろいろ納得できることも多いです。それに、実際の問題に当てはめると、この2つの価値観が対立していると考えると図式的にわかりやすいことも多いように思います。

この本では、ケアの倫理の例として、学級崩壊などの解決には、個人の権利を守る法的措置より絆を回復する「心配り」が重要といったものがあげられています。「ケアの倫理」は医療、看護、福祉、教育、犯罪やDV等の被害者支援などの分野で注目され、研究する人も徐々に増えているのだそうです。

正義論とケアの倫理を並べてみると、男性的な正しさと女性的な正しさに対応していることに気がつきます。私はこれを読んでいるうちに、東洋の古い考え方「陰陽」に思い至りました。二つの価値観は対立しているが、どちらも正しく、相補する関係にある。西洋的には新しいもののようで、東洋人である私たちには古くからなじみのある考え方なんじゃないかということです。

そう考えていくと、個人の自律や権利を高らかにうたい、その価値だけを追い求めてきた西洋の価値観は最初から片手落ちで、男性的な正しさだけに「正義justice」という名前をつけている時点でもう間違っているような気さえしてきます。二つの倫理はセットにならないと完結しない。私たちがあっぱれだと感じるのは大岡裁きのような義理と人情を両立する問題解決なんだと。

この本の解説では、ケアの倫理には様々な「自由」の土台を掘り崩す危険も孕んでいると書いてありますが、それは、「自由」そのものが片方の正しさしか表現していないからとも言えると私は思います。医療や福祉、教育の現場を見れば、個人の権利と絆の両方が守られる解決法を探っていくことは当たり前に大切なことなんじゃないでしょうか。

実際の問題を解決していくにあたって、二つの考え方がもともと相容れないもの、対立するものであると認識しておくことは考えを整理するのにとても役に立つように思います。対立することをわかったうえで、両立するポイントを探っていく。どちらの視点からも納得がいく結論が見つかれば、厚みのある解決になると思います。私たちの頭の中で、というか、身体感覚として、相容れない二つをバランスするという感覚を持つことが大事なような気がします。

抽象的な話に終始したので、なんのことやらわからんという読者もおられるとは思いますが、今回はこういう記事にしておきます。この議論はまたどこかで使えると思いますので、そのときに改めてまた。





 
( 『いまを生きるための思想キーワード』 仲正昌樹/著 2011年11月 講談社 


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