共感性は経験によって培われるもの、当たり前といえば当たり前

 ** いまを生きるための思想キーワード 仲正昌樹 **

「哲学」で使われる用語を中心に、意味や由来などを解説した本です。真面目な解説の項目もあれば、結構著者の自論が展開されて力が入っている項目もあります。読んでいて面白いし、ためになる一冊です。

解説されている用語のひとつに「共感」がありました。哲学での用いられ方は、心理学とは光の当て方が違いますが、ヒントになることがたくさんありました。

いまを生きるための思想キーワード (講談社現代新書)

いまを生きるための思想キーワード (講談社現代新書)

「私」たちには、自分自身を他者の立場にあるものと想像し、その苦しみをある程度、共に感じる能力が備わっているが、自分自身が実際にその人とおなじような体験をしていないのであれば、その「共感」はかなり限定されたものである。様々な立場の人の間の分業と交換で成り立つ市民社会では、人々はいろいろな立場を経験し、それによって相手の立場に身を置いて、その快楽や苦しみを想像できる「感情移入=共感sympathy」の能力を培っていく。(p.50)

これは、アダム・スミスが社会的道徳の基礎としての人間の「共感」能力を論じたものだそうです。このような共感は、そう簡単ではないです。自分と興味も関心も能力も全く違う人の立場に身を置いて、その苦しみを理解して共感することは、極めて困難。誰にとっても、難しい。

この見方を、アダム・スミス的な文脈での「共感」とすると、政治哲学には、もうひとつルソー的な文脈での「共感」があるようです。

ルソーが「自然状態」の人間に本来備わっているとした、自然に抱く同胞への情念「哀れみ」のようなものです。文明が進むと、人間は「他者に哀れみを抱く野生人」から「利己的に理性を駆使し孤立化している近代人」になり、共感の力を失っていくのだと考えられました。「苦しんでいる労働者」を(非情な資本家の支配から)解放しようとしたマルクス主義も、自然な情としての「哀れみ」をその出発点としていました(p.49)。フランス革命では、貧しい人たちの苦しみに共感しない偽善者が粛清されたといいます(p.48)。

 
心理学用語の「共感」と、政治哲学の「共感」は、日本語としては同じ単語に見えますね。
自閉性の障害は長らく、共感性empathyの障害と言われてきました。sympathyとempathyは英単語としては違うのだけれど、辞書の説明でもあまり違いはないようです。自閉症が相手の立場を想像する能力の障害なのだとか、ミラーニューロンの障害なのだとか、そういう説明がされていることから考えると、政治哲学の「共感」と、心理学の「共感」は意味としても重なる部分が多いように思います。専門家ではない一般の人間としては、同じ単語である以上同じ意味だと受け取りがちですし、区別していない人が多いのではないでしょうか。
 
自閉症スペクトラムと捉えられ、実は社会生活を営むその辺りの人たちのなかにもアスペルガー症候群の人たちがいるんだと周知されはじめてから、自閉症を共感性の障害と捉える見方には妙な割り切れなさが付きまとっているように私には思えます。
犯罪に絡めて、共感性の障害=道徳感情の欠陥という連想があったり、単なる知識不足や勘違いなどのケースでも相手を発達障害と疑ったり、診断名がある人とのディスコミュニケーションはすべて共感性の障害のせいだと誤解されたり、といったことです。

アダム・スミス的な「共感」で説明されているように、本来、相手の立場に立って共感することはだれにとってもかなり難しいことです。人は、経験を積むことで、よりたくさんの立場を理解することができ、公平さの感覚(=道徳性)を養っていくのであり、生まれもって人の立場が理解できたりはしないです。ルソー的な「共感」で例として示されている母親が泣いている乳児に手を差し伸べる行為だって、もともとその母親も赤ん坊という立場を経験したことがあるという経験に基づいていると考えるのが自然でしょう。

定型発達の人からは自閉症の気持ちは全く想像できないにもかかわらず、自閉症の人が定型発達の世界のことが想像できないことをもって「想像力の障害」と平気で言うのは、一方的過ぎますよね。
 
これまでもこのブログで見てきたとおり、自閉症が研究対象となり、福祉のテーマとなった時代は20世紀です。この時代にマルクス主義の勢力がかなり大きく、「科学的だ」と考えられていたことは最近忘れがちです。この時代には、共感性の高い人と低い人というのが区別することができたり、それをなんらかの絶対的な尺度ではかり得点の高い順に並べたり、そういうことができると考える大前提が、どうもあったような気がします。

でも、共感って、そんなものでしょうか。

同じ人が同じものに出会っても、共感できるときとできないときがあります。想像力を十分使えるキャパシティのあるときとないときがあり、文脈から得られる材料によってもかなり左右されます。知識によっても違います。生活の中で実際に起こってくる共感という営みそのものはとても社会的、人間関係に依存するものであって、個人の資質だけでうんぬんすることじたいが難しいように思います。共感性をある程度個人の資質として優劣が付けられるとしても、それは、その人がどのくらい「世間」を知ったかという社会経験に大きく左右されるもので、共感性とはまさに培っていくものだと思いませんか。

 
ディスコミュニケーションがあれば相手の共感性に問題があるように感じてしまうのは人間としてはまともな反応ですが、もしかしたら自分の側の問題かもしれないと疑ってみる謙虚な心は持ちたいです。自閉症にはいろいろな神経学的な基盤があることが解明されつつあります。自閉症の人とコミュニケーションがとりにくいからといって、それを共感性の障害と言うのはすっかり時代遅れのような気がします。

共感性とは経験によって培われれるもので、「世間知らず」な自分の世界を広げていくのは誰にとっても大事な課題ではないでしょうか。当たり前といえば当たり前のことです。

 


 
( 『いまを生きるための思想キーワード』 仲正昌樹/著 2011年11月 講談社 


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