脳・感情・身体は有機的につながっている

  ** デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 アントニオ・R・ダマシオ/著 田中三彦/訳 (アメリカ)** 


以前の記事『脳で診る発達障害−4つのタイプで長所を活かす(2012/05/07)』で紹介した、『活かそう!発達障害脳―「いいところを伸ばす」は治療です。』(長沼睦雄)の中で引用されていた本です。2000年に刊行された『生存する脳』(講談社)を、新しく訳出しなおして文庫版にしたものです。

ダマシオ氏はポルトガル生まれ。リスボン大学で医学と理学の博士の学位をとった方ですが、その後ハーバード大学で研鑽され、南カルフォルニア大学で Brain and Creativity Institute(脳と創造性の研究所)の所長をされているということです。

私にとって、この本の内容は1回ですんなりとすべてを理解できるものではなく、もういちどじっくり読み込んでみたいという思いにまだ駆られていることを正直に書き留めておきたいと思います。言い訳になりますが、著者本人も、「はじめははっきりしなくても二度目にはためになるような話があってもいい」(30ページ)つもりで書いておられるそうで、ここに1回目の感想を書き、いずれもう一度振り返る機会を持ちたいと思います。

デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 (ちくま学芸文庫)

デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 (ちくま学芸文庫)

第1部の内容はとても興味深いものでした。脳の前頭前野という場所を事故や病気で後天的に損傷した患者に共通する不思議な現象についてです。聡明さは失っていないように見えるのに、生活がちぐはぐな感じになる。知能検査やさまざまなテストでは正常で、倫理的、道徳的な課題にも優秀な成績で答えることができ、人格検査と名づけれた検査でも問題がないにもかかわらず、実生活では効果的な計画を立てることができず、悲惨な結果から学ぶこともできず、どうすればいいのかをちゃんと選べていないという状態になるのだというのです。

それは、知的にかなり高いタイプの自閉症スペクトラム障害の人たちについて、一般の人が抱く感じに良く似ています。
また、以前とりあげた『ロボット化する子どもたち―「学び」の認知科学 (認知科学のフロンティア)』(渡部信一)にでてくる、AI業界でいうところの「フレーム問題」にも共通するところがあります。
知的能力がある、知識がある、ワーキングメモリがある、だけでは、瞬時瞬時に行うべき選択を効果的に行うことができないのだということです。私たちは何らかの方法で、一瞬のうちに、状況の中から必要でない選択肢を取り除き、効率的に推論や判断を行うシステムを自分の中に持っているらしいということ。

第2部では、前頭前野障害の患者たちには情動の衰退が見られ、感情が浅くなる現象があることから、ダマシオ氏は、感情や情動と、推論や判断には関係があるとみて、さまざまな角度から論をすすめます。そして、その最後に提示され、第3部で検証されるのは、「ソマティック・マーカー仮説」というものです。

ソマティックのソマ(soma)とは身体のという意味で、ソマティック・マーカー仮説は私なりに要約すると、私たちは、経験の中で情動を感じると、そのことを経験と結びつけて身体で記憶し、次の判断の時に利用しているということを表しています。

感情・情動とよばれるものについて、この本ではいくつかの分類を試みています。
情動とは、英語のemotionの訳語として提示されていますが、これには外部観察者がそれとわかる身体的な変化を伴うといいます。高鳴る心臓、鳥肌、震える唇、体温の上昇など、確かに身に覚えがあります。情動を感じたときそれらの身体的な変化は確かに起こります。ダマシオは哲学者ウイリアム・ジェームズの言葉を引用して、身体的徴候と情動が分かちがたいものであると述べていますが、私自身はこれを納得するのに少し時間がかかりました。
情動には1次の情動と2次の情動がある、とダマシオは述べています。
一次の情動とは、赤ん坊のときからある、たとえば大きな音などを怖がるなどの反応のことですが、これは脳の中では扁桃体に関係しているといいます。
二次の情動は、もっと大人になって経験する、たとえば古い友人との再会、同僚の死などで感じる強い気持ちの動きのことで、これは一次の情動を基本としているものの、より複雑な経路を使って引きおこされます。
また、感情feelingは喜び、悲しみ、恐れ、怒り、嫌悪といった基本感情と、それらが微妙に変化した多幸感や憂鬱、切なさ、恥じらい、パニック、後悔、復讐心などに分けられ、これらは情動と関連していて、それらを表す身体的な状況(鳥肌や内臓が動揺する感じなど)のセットと合致するとその感情を認識することができるといいます。
この他に、背景的感情というのがあると述べられています。情動的な感情がないときにその背景としていつもある自分の身体的な風景のイメージのことで、当たり前すぎて意識していないけれど、私たちはいつも自分の体の状態をなんとなくイメージとしてもっており、なんらかの情動が起きるとその変化が意識されるということだといえます。

前頭前野を損傷している患者は、二次の情動についての処理の障害を抱えています。感情の劇場として身体を使うことができないのです。ソマティック・マーカー仮説では、内臓的、非内臓的を含めて、身体に起こる直感的な感情がマーカーとして働き、判断について頭で考える前に、何が危険なのかを察知してネガティブな行動を阻止しているといいます。

第3部ではこの仮説を実証するためのさまざまな実験の結果が述べられています。ウソ発見器で良く知られているポリグラフは、手の汗の状態が感情に左右されることを利用したものですが、前頭葉損傷患者ではびっくりさせるなどの一次の情動では正常な反応を示し、二次の情動を喚起させるような刺激では反応しないということを突き止めています。
ギャンブル的な要素を持つカードゲームでの実験では、判断の障害がはっきり出て、患者は大負けする選択をして、その事実から学習することもできませんでした。ゲームの最中にポリグラフでモニターすると、健常者はゲームの進行とともに負けそうなパターンを学習して皮膚の反応が強くなったのに対し、患者はなんの反応も示しませんでした。

たぶんほかのどの結果よりもこの結果が、これらの患者における苦しみと、その根底にある神経病理の重要な部分を例証している。何を避けるか、何を好むかを学習できるようにしている神経システムが機能不全になっているのであり、新しい状況に適した反応を彼らは生み出すことができないのだ。(336ページ)

私たちは、生活の中で瞬時瞬時に行う推論や選択に、身体が感じる感情の助けを大いに借りていて、これがなければ、どんなに知的に高くてペーパーテストで優秀でも、賢く生きていくことは不可能なのだということだといえます。


この本で示されたことは、近代といわれるここ数百年の、とくに西欧を中心とした心と身体についての考え方の大きな枠組み(パラダイム)に真っ向から挑戦するもので、それが題名にデカルトの名前が使われていることの由来になっています。
でも、日本人として素直に自分の周りを見回せば、直感でしか決められないこと、頭がそうしようとしても手足が動かないことはたくさんあるし、それは古い日本の言い伝えなどには厳然と残っているような気もします。
21世紀を迎えて、私たちは近代西欧的なものの考え方の限界を越え、新しい枠組みをつくる時代に入ってきているとも言えると思います。

すくなくとも脳損傷の患者について、判断がうまくできないという問題に感情と身体が関わっているという事実は、発達障害を考えていく上で大きなヒントになると思いました。発達障害者が抱える身体の過敏性や感覚統合の問題が、今考えられているよりずっと本質的なものとして捉えられるかもしれません。
それ以上に私が感じたのは、現代人の生活が、昔のような肉体労働を伴わず、温度調節の整った環境で<快適に>行われている事実が、私たちの身体感覚を鈍らせ、結果的に<賢く>なることを阻害しているのではないか、ということでした。私たちは身体のことを軽視しすぎていたのではないでしょうか。

感情、身体、脳。これらを考えていく上で大きな示唆を与えてくれる一冊でした。



(『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 』 アントニオ・R・ダマシオ/著 田中三彦/訳 2010年7月 筑摩書房 ちくま学芸文庫 DECARTE'S ERROR by Antonio Damasio 1994)


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