忘れたということをすっかり忘れてしまう脳

 ** 七秒しか記憶が持たない男 脳損傷から奇跡の回復を遂げるまで デボラ・ウェアリング(イギリス) **


ごく最近の出来事を忘れてしまうという現象は、認知症の症状として良く知られています。ご飯を食べたことをすっかり忘れるというような話です。

でも、この手記に書かれている記憶障害は、そのような生半可なものではありません。

目を覚ましていたこと、ここにいたこと、そのものを、すっかり忘れてしまうのです。



七秒しか記憶がもたない男 脳損傷から奇跡の回復を遂げるまで

七秒しか記憶がもたない男 脳損傷から奇跡の回復を遂げるまで

 
この本の著者の夫クライヴは、ウイルス感染による脳炎から、記憶障害になりました。

単純ヘルペスという、どこにでもあるウイルスですが、まれに脳に入り込むことがあるのだそうです。

 
脳炎の症状がおさまり、見た目は元気そうになっても、クライヴは、支離滅裂な言葉をしゃべり、服を着始めたら際限なく着続けるなどのおかしな行動をとるようになります。

症状は少しずつ変わり、言葉は改善し、精神的にも安定したように見えたころ、記憶に障害が現れていることがはっきりします。

この種の記憶障害にかかると、新しい記憶を取り込む能力が奪われてしまうのだそうだ。つまり、脳に流れ込んでくる情報は、温かな地面に落ちた雪のごとく溶け、なんの痕跡も残さないということだった。(168ページ)


それは、瞬間から次の瞬間へと連続する時間の中で生きることができないということを意味していました。

彼は、いつも、今永い眠りから醒めて新しい世界にいるような感覚を持っていました。やがて彼は日記をつけるようになるのですが、以前に書いたものが本当のように思えないために、それを塗りつぶして消しては、新しい今の気持ちを書き続けます。一日に何度もそれをやり直すのです。

 
クライヴは音楽の指揮者でしたが、オルガンを弾く能力や読譜力は失われておらず、指揮をすることもできました。また、昔行ったことのある町のことをよく覚えていました。そして、妻デポラのことも覚えており、彼女を愛し続けていました。

でも、ついさっきの記憶がすっかり全部なくなって、今目覚めたばかりというような感覚しかもてないため、日記帳には、たった今目覚めたことと、妻に会いたいということが、繰り返しつづられていたのでした。

新しく記憶する能力を失い、時間の流れを掴むことが全くできなくなっても、愛を告白し続ける様子には、こころ打たれるものがあります。

「きみのことは、一瞬だって忘れないよ」と彼は言う。「ぼくたちは一心同体なんだから、きみは僕の鼓動の存在理由(レーゾンテートル)なんだから、ダーリン。永遠に愛している」
夜道を運転し、数時間後に自宅に帰宅すると、クライヴに電話する。無事に帰りついたことを知らせたいと思ってのことなのに、彼は私が見舞いに行ったことを忘れている。
「いつ、ここに来るのかね?」と彼は言う。「光速で来てくれ!」
「たった今、家に着いたばかりなのよ」と、私は言う。
「へえ、そうなのかね? でも、明け方に来てくれ……」(442ページ)

妻デポラは障害を負った夫の変化に驚き、医学や福祉の限界にぶち当たり、そして、どう行動したか。それは、ぜひこの本を手にとって読んでみて欲しいです。





後天的に脳を損傷し障害が残ることは、脳梗塞などの血管の病気や、交通事故などの外傷などたくさんありますし、身近に誰かがそのような状態になってしまったという経験をした人もたくさんいると思います。

でも、ウイルス脳炎で起こった脳障害について知るのは私は初めてで、読み進めながら何度も、これが作り物の小説ではなく、実話をもとにした手記であることを確認してしまいました。

彼は脳全体またはまとまった一部というよりも、脳のあちこちにとびとびに損傷が起きたことによって、現実とは信じがたいような不思議な状態が実際に出現してしまった、ということらしいです。
 
 

後天的に脳に損傷が起こったために起こる認知の障害を、高次脳機能障害といい、発達障害を理解するうえで参考になるということは、以前から聞いていたのですが、確かに、世界の見え方や時間の流れ方が変わってしまうという点で、発達障害と似ていると思いました。

発達障害はかつてMBD(微細脳障害)と呼ばれ、出生前か出生時に脳に細かな傷がつくことで起きると考えられていたと聞いています。ワクチン説もありました。これらが、このような後天的な脳機能の障害との類似から考えられたということが想像できます。

でも、発達障害はもっと遺伝的なものとの関連が考えられるし、また、生まれつき能力が過剰といえる部分を持った人もいることを考えると、ちょっと違うともいえると思いました。

まずは、脳の各部がそれぞれの働きを持っていて、各部のバランスが崩れることにより、認知の障害が起き、世界が違って見えてしまうことは、高次脳機能障害の人たちの症状が証明してくれていると考えたらいいのかなと思います。


また、後天的な脳の傷については、本文の中で、屋根から落ちて記憶障害が残っているのに気づかれていないケースなどが例に出されていますが、案外、後天的な認知の障害があるのに、本人や周りが気づいていない状態の人はたくさんいるのではないかとも考えました。

大人の発達障害とどう鑑別するのか、多分よくわかっていないのだと思います。それはまだ、これからの課題のような気もします。




(『七秒しか記憶がもたない男 脳損傷から奇跡の回復を遂げるまで』デボラ・ウェアリング 匝瑳玲子:訳 2009年9月 ランダムハウス講談社 Forever Today A Memoir of Love and Amnesia









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