いのちはどこから来てどこへ行くのか

   ** 永遠のなかに生きる 柳澤桂子 ** 


私たちの「いのち」は、どこから来たのでしょうか。そして死とは何なのでしょうか。

遺伝学者でサイエンス・ライターの柳澤桂子さんのエッセイを読みました。

私たちは、両親から半分ずつ遺伝子を受け継いでいます。高校の理科あたりで学んできている知識をもとにすれば、DNAのなかには二重のらせん構造があり、ここに遺伝情報が入っていることになっていますね。この情報をもとに体がつくられ、手足や内臓と同じように脳もつくられるのですが、

そこには、なんとなく、モノとしての体や脳だけが認識されていて、いのちがある、生きているという感覚は持たないままに学習してきたような気がします。そうすると、いのちはどこから来たのか、という謎が残ってしまいます。


永遠のなかに生きる

永遠のなかに生きる


柳澤桂子さんのエッセイは、宇宙のビッグバンから始まります。ビッグバンから30億年ぐらい経って細かい粒子が集まって原子が生まれ、それらが集まって星が生まれ、熱い地球に雨が降り注ぎ、高温の海で遺伝情報を持つ分子が現れたのが、約40億年前。

DNAと同じような構造を持ち、自分のコピーを作ることのできる分子の誕生。これをもって、いのちの誕生としています。

DNAはたんぱく質などとともに脂肪の膜につつまれるようになり、細胞となります。それらが長い時間をかけて、多種多様な生物に進化していく歴史がつづられていきます。植物も昆虫も鳥も魚も、そのような原始的な細胞が進化していくなかで生まれ、もちろん私たち人間もその進化の系譜の中にあります。

すなわち、生きとしいけるものの全てが、約40億年前に生まれた「いのち」を受け継いでいるということです。いのちは、連綿と続いてきたし、形を変えながらこれからも続いていく。

つまり、DNAを受け継いだということが、いのちを受け継いだということなのだと。



それでは、私たちが死ぬということは、どういうことなのでしょうか。

地球上に生命が誕生してこの方、生き残ってきた生物種はごく一部であり、山をなす死体の中の一条のいのちの流れにすぎません。(44ページ)

原始地球の環境では紫外線で壊れた細胞は死に、増殖に適した細胞だけが生き残ったと考えられます。その後、増殖に都合の悪い細胞を殺して除去する作用が生まれてきます。多細胞生物では、細胞全体の統制と秩序の維持のために、一部の細胞を自死させる、アポトーシスという機構が生まれました。また、細胞が酸素を使うように進化してきたら、酸素から生じるフリー・ラジカルというものによって、DNAや細胞内の分子が酸化されて損傷を受け、細胞は老化し、最終的には死に至るようになります。

そこで、多細胞の生物では、生命の永続性を担う生殖細胞と、一代限りの生を維持するための体細胞が役割を分担して分かれた、というのです。一代限りの生を維持するための体細胞、というのが、私たちのひとりひとりに相当します。

つまり、

私たちが<いのち>と思っている、自分の個体としてのいのちは、40億年前から受け継がれ、この先も受け継がれていく「いのち」の流れの本筋からはずれ、最初から、死ぬ運命を担っている末端組織にすぎないということです。「いのち」の本筋に属しているのは、あたかも自分の持ち物のように思いこんでいた生殖細胞の方ということ。

私たちの個体の寿命は、受精の瞬間から時を刻み始めます。産声をあげる10ヶ月も前から、私たちは死に向けてすでに歩み始めているのです。(48ページ)

私たちは、太古の昔から伝えられたいのちを次の代に伝え、死ぬことを運命づけられた個体であるということになります。はかない私たちの生、という考え方は無常を連想させ、日本的な感じもするし、キリスト教の大いなる神に対する「小さき者」という考えにも近い感じがします。柳沢さん自身は無宗教者なのだそうですが、宗教的な、自分の傲慢さに気づく感覚がありました。



ここから、柳澤さんの個人的経験も交えながら、死ぬということをどう受け止めていくのかという話につながっていきます。

私たちは、多細胞生物の運命として死ななければならないのだけれど、私たちの体に受け継がれたいのちは、40億年前から連綿とつながれてきたもので、個体が死ぬというのは、それが終わるということ、壮大なドラマの終わりなのだといいます。

また、人間は受精の瞬間から死に向かって生きていくのだから、死というのは、ひとつの点ではなくて、一つの過程だといいます。今の医学では、その人がふたたび意識を取り戻すことができなくなる点を死と呼んでいるので、臓器移植や延命治療という場面で医師と患者側の難しい問題が起きてくるといいます。遺伝子診断や人口中絶にも触れています。

柳澤さんの考えは一貫して、人間は死ぬものという冷ややかとも言える死生観です。

人間は死ぬものであるということを各人が考えて、毎日を充実させていきること(108ページ)

それは老いや死を直視し、避けないということでもあります。すべての人が真剣に老いや死について考え、介護を人任せにしてお金で解決するのではなく、老若男女を問わず障害者や高齢者に関わっていくこと。介護を汚い重労働にしてしまっているのは、人々の意識そのもので、本当は、汚さや辛さを越える大きな感動のある仕事だと主張しています。


 
柳澤さんの死生観はだんだん伝わってきました。私たちはなんとなく、自分が個体として生まれたときにいのちが生まれて、意識がなくなったときにいのちが死滅するのだと考えてきたような気がします。おそらくそれは間違いで、いのちというものは、小さな生殖細胞を介して、気の遠くなるような太古から伝えられ、受け継いだものであったといえるのでしょう。そのいのちを伝えていくために、個体は死ぬ。
 
それならば、私たちが個体として、別々の意識を持っているのはなぜなのでしょうか。
私たちは脳を持ち、自意識を持ち、同時代に生きるほかの個体とコミュニケーションし、社会をつくり、傷つけたり、助け合ったり、泣いたり、笑ったり、感動したり、怒ったりしながら、世の中について学び、成熟していきます。

それについての理路整然とした答えは、この本にはありません。

私たちに多様性があるのは、DNAをダビングして増やしたときにのたまたまの間違いや、その他の原因での塩基の入れ替わりによるものと考えられているのだそうです。血縁関係のない二人のヒトでは、1000塩基に1個ぐらいの割合で塩基が違っています。多様だけれど人間としての秩序は保たれており「バラバラでいっしょ」なのだと説明されています。ヒトとチンパンジーでは100塩基に1個ぐらいの割合で違っており、種が違ってしまう。生物の多様性も、個人の多様性も、DNAの違いの程度の差です。私たちは太古の昔から繰り返された偶然や必然の遺伝子の変異の結果として、多様性を持ち、ある程度近縁の個体とともにヒト種を構成し、群れ集団をつくって行動しているわけです。

私たちが多様な脳を持ちそれぞれの意識を持って生きるということはどういうことなのか、また、脳に病や障害を持つということはどういうことなのか、私たちが慣習として精神病とか精神障害と呼んできたものは、どのように説明できるものなのか。

うまく表現できませんが、柳澤さんのようないのち観から見渡したとき、これまでの説明だけではうまくゆかないのではないかという予感がします。

私たちの世界観、人間観、哲学のようなものが、大きな転換期を迎えているような気がします。発達障害はこれまで学んだように、100年ほど前から議論され始めた概念です。人間が発達するとはどういうことなのか、発達障害とはどういうことなのか、おおきな視野からとらえ直す必要があるように思えてなりません。






(『永遠のなかに生きる』 柳澤桂子  2006年1月 集英社  2009年7月集英社文庫 )




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