器用感性(きようかんせい)というキーワードで日本の学校や社会を見てみると。。。。

   ** 児童心理 No.916 特集 人の気持ちがわからない子 2010年7月号 ** 


図書館で見つけたのですが、よく見たら、かなり古い号でした。


児童心理 2010年 07月号 [雑誌]

児童心理 2010年 07月号 [雑誌]


表題にもあげた

  器用感性 きようかんせい

という言葉が、気に入りました。京都文京大学教授の高石浩一さん(心理学)がこの号に寄せられている記事『空気を読む時代の共感を考える』のなかで、造語というかダジャレというか、半ば遊びごころでつけられています。



場の空気をよむ、皆が思っていることを察する、という集団への共感性、巧みにそれを読み取り集団に馴染んでいこうというソーシャルスキルをも含めて、器用感性という言葉で呼び、これを一般的な共感性と区別してはどうかというのが、高石氏の提案です。

高石氏の洞察によれば、

1.器用感性が、「和を持って尊し」聖徳太子以降、わが国に極めて特定的に発展したソーシャルスキル(世渡り術)であり、

2.グローバル化に伴い、国際競争力を、自己主張を、ディベートに勝つといった国策的目標があり、

この、1と2がダブルスタンダード(異なる判断基準が同時にあるような状況)になっていることが、

明治時代以降の教育界でいまだに続いている異文化摩擦の原因になっている、と。


うん、うん。そのとおりかもしれないです。

 
このような例があげられています。

小学6年生のクラス。担任の先生が理不尽な要求を皆に突きつけたとき、

KYな児童は空気を読まない「正しい」ことを言ったり、先生に簡単に論破されそうな「自己主張」をしたりする。こういうとき、
あくまで先生を追い込まず、揶揄するような形で皆のガス抜きをしつつ、先生も児童も同意できそうな妥協案を提案するのが「デキる」子の振る舞いとされているのだそうです。
こうした高度なやりとりは、皆ができる必要はなく、自信がなければ、黙っておく。

最低限、それが日本の教室や会議でKYといわれないためのソーシャルスキルなのである。

これは、自己主張を是として、皆の前で感想や考え、思っていることをきちんと表現する、という表向きの<教育理念>とは、相容れません。



外国人や留学帰りの人には、日本的な空気の読みができないと感じることが多いということが書かれていますが、それは私たちもよく経験することです。でも、たとえばアメリカにも、空気を読むという文化はちゃんとあるのだ、と、高石氏は言っています。

言うべきときは言う、沈黙すべきときは黙るというのは、高等戦術としてあり、落としどころを察してムードをそこへ誘導するのがリーダーの役割とされているというのです。ただし、

彼らは、自己主張を是とし、個々人の意見をすりあわせて合意点を見つけようとするのに対し、

日本の文化では、黙って全体の空気を見渡すことから始めるという点が違っているのだそうです。



日本の教育では、インフォーマルな形で、器用感性が育まれていると高石氏はいいます。授業では(フォーマルの場では)無理に自己主張の練習をさせられる。授業の合間や放課後などのインフォーマルの場では、自己主張(ワガママ)を大人の態度でスルーしたりきちんと諭しながら、黙って様子をうかがい、ここぞというときに解決策を呟く「器用感性」が育まれている。

この器用感性が育まれる場(授業以外の場での友だち関係)を逃げると、

1.集団の中で黙っているだけ、我慢するだけの存在で居続ける か、

2.常に、誰にも聞いてもらえない自己主張(ワガママ)を繰り返すおバカ(未熟者の意)

になってしまうので、空気を読めない子どもでも、最低限その場にいることができる環境作りが大事だろうというのが高石氏の示す方向性のようです。


うん、うん。合点がいく。日本の親は、自分の子どもを学校に行かせつづけることで、世の中でうまくいく人間関係の力を学べると思っていますが、それは授業ではなく、休み時間や部活動に期待している部分が大きいですよね。先日取り上げたドイツの話とは、かなり違っています。



と、ここまで見てきて、どうでしょう。

アスペルガー症候群は社会性の障害、といったフレーズはよく使われていますが、社会性というのを、この器用感性とほぼイコールで考えていた、という人もたくさんいるのではないでしょうか。それは、どうも、違うようです。器用感性は優れた人もいるが、全然ダメな人もたくさんいるし、場数を踏むことで鍛えられていくもののようです。



この記事が書かれた2010年当時は、KY(ケイワイ)という言葉が流行っていました。場の空気が読めない人に対して「人の気持ちがわからない」という言い方がされたわけですが、ここに、高石氏は、集団と個人の区別を曖昧にしてしまう日本的感性を見てとっています。ここで「人の」といっている「人」とは、「私」と「私たち」がごちゃ混ぜになって考えられたもののことを指しているわけで、「人の気持ち」とは、その集団がなんとなく共有しているムードのことを指していると考えられます。

このことは、日本では共感性と器用感性が混同されてしまう一因になっていると高石氏はいっています。

共感性というのは、むしろ自分と他人が別々の立場や認識や感情を持っていることをちゃんと区別して、自分の気持ちに埋没することなく、相手と自分に重なりをみつけ、共鳴する力のことだ、と、この号の別の記事(4ページ)にあります。(角田豊氏『「人の気持ちがわかる」とは−共感の心理学』)

器用感性はもちろん人間としての基本的な力である共感性をベースにしたものではあるけれども、文化的社会的に伝達されているスキルであり、世代や民族が変わればすっかり意味を変えてしまうようなものだと考えられるのです。



集団のウチとソトを区別し、線引きするという行為は、おそらく群れをなす動物としての人間の習性として、どの文化にもあることです。社会心理学の知見によると、外からの圧迫や集団内部の不満が鬱積すると、「いじめ」に代表されるような排斥運動がおこってくるのだそうです。

KYという言葉で、空気を読まない人を排除する動きは、そのような流れから理解できるとこの記事では言っています。日本には、集団内の閉塞感、政治や経済の先行き不透明感、実際的な意味での異文化の流入などがあり、KYを断罪する国、日本になっている、と。



さて、この記事が発表された2010年7月から2年ほど経とうとしています。

この間に、大きな災害や事故があったこともあり、日本の社会は大きく変わってしまいました。

あの頃のような閉塞感はあまり感じないような気もします。何かがポーンとはじけて、全体が混沌としていて、先行き不透明を通り越して、これから何が起こってくるのかまったく見当もつかないような感じがします。

そういえば、最近、KYという言葉はほとんど聞かないようになりました。

空気を読むばかりで前へすすまない議論より、実践している人、いろんな立場を調整して機敏に動いている団体がクローズアップされています。共感性をフルに発揮できる本物の器用感性が試されているところでしょう。

もういちど、先に書いたところを読み直してみてください。

器用感性が育てられないと、黙って我慢するしかない人か、ワガママなおバカになると書いてあります。

実は、これまでの日本社会は、人にぎりの本物の器用感性を持った人と、大勢の黙って我慢する人、自己主張を持たないように自分をコントロールすることで世渡りする人によってなりたっていて、少数の場を読まない人をワガママ、KYと断罪していたのは、我慢していた人たちの閉塞感だったのではないかという気がしてきました。



場を読まない発言で和を乱している日本の子どもや大人は、自分の主張をちゃんと持っているのですから、彼らの器用感性ををきちんと育てていくことで日本はもっと発展していくのだと思います。このスキルがインフォーマルな場で育まれていることを、高石氏はわりと高く評価しているようにも見受けられるのですが、異文化がどんどん流入している状況でダブルスタンダードを保持していくのは難しく、日本的な和の視点も取り入れながら自己を主張し相手を理解するという合意形成の仕方の教育をぜひとも学校教育のフォーマルな場でやってもらいたいものだと思いました。

インフォーマルな場で、授業で習ったのと矛盾することを、だってそうでしょう、という周りの目線で提示されて学ばなければならないのは、発達障害の傾向がある人にはかなりのハードルです。とくに、ごく軽いアスペルガー傾向の人などには、言葉にしてこういうルールがあるんだよ、と教えるだけで、なんだ知らなかった、そういう判断基準もあったのか、と、その日から変われることもあるような気がします。

職員会議や教授会が変わっていくというおまけもあるかもしれません(笑)。


新しい時代に即した器用感性は、おそらくビジネスの現場などで試行錯誤されていることと思います。いろいろ探しに行ってみたいように思います。お楽しみに。




(『児童心理 No.916 特集 人の気持ちがわからない子』 金子書房 )




ブログランキングに参加しています。記事が面白いと感じられた方、このブログを応援してくださる方は、下のバナーをどれかひとつ、クリックしていただけると有難いです。
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 発達障害へ
にほんブログ村

にほんブログ村 本ブログ 一般書・実用書へ
にほんブログ村

にほんブログ村 教育ブログ 特別支援教育へ
にほんブログ村

人気ブログランキングへ