文脈というものは案外奥深い

    **わかったつもり 読解力がつかない本当の原因 西村克彦**



発達障害を勉強していると、文脈がわからない、行間が読めない、ということが、脳の障害とされているというのは、どう考えていったらいいのだろうか、悩むことがあります。
 
だいたい、文脈ってなんなんでしょうか。つきつめて考えるとわからなくなってしまいます。


教育大学の先生が、国語教育の観点から文脈について書かれている本を見つけましたので、文脈とはそもそも何なのか、考えてみたいと思います。


わかったつもり 読解力がつかない本当の原因 (光文社新書)

わかったつもり 読解力がつかない本当の原因 (光文社新書)


文章を読んで、わかった、というのはどういうことかという説明のなかに、文脈という用語が出てきます。


文脈とは、物事・情報などが埋め込まれている背景・状況のことを指す、のだそうです。


これは何の話かということ。どんな状況の話なのかということ。これが、わからないと、文章を構成している各部分がつながらない。それが、文脈です。


そして、文脈と文章の各部分の関連をつけるために、私たちは無意識のうちに、文中の言葉や文脈についての知識を記憶の中から引き出して使っているといいます。これを、スキーマと呼んでいます。


部分間の関連が、使った文脈と整合性が取れていれば、『わかった』感じが得られます。そのとき、文章のそれぞれの部分には、他の部分と矛盾なく関連づけられる『意味』が引き出されます。

 
本文中に示されたこのような文で考えてみます。

   小銭がなかったので、車を持っていかれた(33ページ)

なんのことだかわかりにくい文ですが、パーキングメーターの話だという状況がわかれば理解できます。それが文脈です。パーキングメーターには小銭が必要だとか、レッカー移動されるというような知識(スキーマ)を使い、小銭がなかったこと、車を持っていかれたことに、文脈に沿った意味が引き出されています。


文章がわかるということは、文脈を使ってスキーマを活性化させ、文脈に沿った意味を引き出すということだと言えるようです。同じ文でも、違う文脈、違うスキーマを使えば、引き出される意味は違うと言うこともいえます。
朝の支度をしている男性のことを書いた文を、『失業者』、『株の仲買人』という二種類の文脈を使って読み、出てくる意味の違いを比較するという例も載っていますが、なかなか面白いです。


この、文脈というのは、ひとつの文章にひとつあるのではないようです。おおざっぱな文脈、細かい文脈があり、細部にも、登場する人物やモノの個体識別や、季節など、さまさまな見方からの文脈というものが存在し、それらをこまかく組み合わせることで、文章をより深く理解しているといえるようです。さまざまなスキーマを使い、文章全体に整合性のある、背景・状況を想定しているわけで、それは、読み手の想像力によって作られた世界ともいえると思いました。


さて、ここからが、この本の本題です。


本のタイトルにあるように、読解力を伸ばしていくうえで障害になっているのが、『わかったつもり』なのだそうです。とりあえず、整合性がついて安定した状態になると、それ以上わかろうとは思わなくなる。そこが問題らしいです。浅い読みで安定するという場合も大いにあるのですが、特に問題なのは、間違って読んで安定してしまうこと。


文脈とスキーマの視点からこれを分析しています。


・「結果から」というわかったつもり…物語の結果を見て、それが本来の目的だったという文脈を読み手が勝手に作ってしまう誤り。思わぬ結果になってしまったという展開の面白さがそれでは味わえない。「最初から」というバリエーションもありますが、プロセスが味わえないという意味では同じです。

・「いろいろ」というわかったつもり…たくさん羅列されると、いろいろあるのだなと認識した時点で、それ以上の追求をやめてしまって安定してしまいます。

ステレオタイプスキーマ…知識として持っている決まりきったイメージやよくある意味づけが強く働いて、それを否定するような表現が文中にあっても読み飛ばしてしまいます。


間違った「わかったつもり」を脱していくのには、いくつかの文脈を使って同じ文章を読み返すことが有効なのだそうです。部分を読む細部の文脈を使うことで、新たな疑問がわき、それを前後関係から解いて関連づける作業で、間違いが正されていくプロセスを、例を使って説明されています。これを、著者は『文脈の交換』と呼んでいます。

文脈の交換によって、新しい意味が引き出せるということは、その文脈を使わなければ、私たちにはその意味が見えなかっただろうということです。すなわち、私たちには、私たちが気に留め、それを使って積極的に問うたことしか見えないのです。それ以外のことは、「見えていない」とも思わないのです。(178ページ)

同じ文章を読むのにも、いくつかの多層な文脈が存在し、自分が気づいた文脈でしか、自分は読み取ることができないし、それ以外の文脈に気がつかなければ、別の意味が存在することじたい、全く知ることができないということです。


この本では、最後に大学入試問題に触れ、整合性のある正しい解釈というのは、幾とおりもあり得るという立場から、「正しいものはどれか」という設問の仕方をやめ、「可能な解釈は」という問い方にしたらどうかという提案をされています。たったひとつの正しい解釈を主張することは、押し付けなのです。自分にはまだわからないもっと深い読み方が、まだ残されているかもしれない、読む、わかるということは、それほど奥が深いものだといえると思います。




このことは、私たちが問題にしている、発達障害に大いに関わってくる部分だと思います。


相手が文脈がわからない、と感じるときは、自分が気づいている文脈について相手がわからないらしい、ということを指しているのであって、たったひとつの正しい文脈がわかる、わからない、といった単純なものではないということです。そういう自分も、だれか他の人から見れば、わかっていないなー、というレベルかもしれない。それは、レベルの違いのこともあれば、見方(使っている文脈)の違いかもしれないのです。


文章と違って、日常生活の文脈というのは刻々と変化し、言葉以外にもしぐさや道具や声の調子や間の取りかたといったたくさんの部分が意味をなしている世界なのだと理解できます。しかし、文脈を使って、スキーマが活性化され、部分から意味が取り出され関連づけられて理解されているという基本部分は、全くそのまま応用できると考えられます。そこで起こっているコミュニケーションの行き違いというのは、実は、この文脈の多層性、使っているスキーマの違いに由来している可能性があるわけです。




このように読んでいくと、コミュニケーションがちょっと行き違った程度で、それを脳の障害というのは、とんでもない飛躍だということに気がつきます。じゃあ、発達障害における文脈が読めないというのは、文脈を使って状況を理解するどこかの部分の障害を意味しているのか、それは何に由来するのか、ということになってくるように思います。これからの課題として考えていきたいと思います。





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