ホモエコノミクスとDSMで読み解く時代

    **<不安な時代>の精神病理 香山リカ**


DSMというのは、アメリカ精神医学会の診断マニュアルのことです。"Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders"の略語で、初めて作られたDSM-I(1952年)から、順次改訂が加えられ、現在は2000年に作られたものが使われているそうです。
 
しろうとである私たちが、医学に接するときに、こういうのがありますよ、と言われれば、あ、そうなんだー、と、受け入れているもののひとつだと思います。発達障害に関しては、このDSMあるいは、ICDという基準を使って診断されることが多く、だいたいどんなものかは、知っている方も多いと思います。


DSMは、病気の意味や背景といったものを排して、より客観的な状態把握だけで診断を行おうというものといわれています。哲学的でわかりにくい伝統的な診断法に比べて、誰が見ても同じ診断ができる反面、機械的、操作的という批判も多く聞かれます。
 
その、DSMもからめて、現代の経済状況を生んだ経済理論と人々の心理との因果関係を読み解こうとした本を見つけました。
 


〈不安な時代〉の精神病理 (講談社現代新書)

〈不安な時代〉の精神病理 (講談社現代新書)

 


著者は、精神科医でありながら、多方面の方々との対談、共著などがあり、社会批評などでも活躍されておられます。テレビ出演も多い方なので、見たことがある、知っているという反応が多いと思います。



ホモエコノミクスというのは、経済学で仮定されている人間像を指しています。個々の人々が合理的に自己利益を追求するというこの考え方は、高校の政治経済で習う需要と供給の曲線にもよく表されています。大学などで研究されている近代経済学はこれをもっと発展させて、資本主義のもとでは、人々が効用(自分の満足)を求めて合理的に判断し行動するとの仮定ですすめられてきました。

まあ、こっちのほうも、教科書にのっているからには、あ、そうなんだー、と、受け入れているものです。


この本は、まず、ホモエコノミクスという考え方が、精神医学者の人間観とかけはなれていることから論をすすめられています。人間は全体を正確に見渡すことはできないし、感情もあり、計算どおりには動いていない。確かに一般人としても当たり前の感覚が、経済学の中では見落とされているような気がします。


著者は次に、現代の若者、その親世代、そして高齢者の心理を、経済のキーワードから読み解きます。

・若者 … 自分に自信がなく、消費より貯金。消費も、他者依存マインドで、流行っているもの、他人が持っているものが欲しい。

・親世代 … 子離れできない。自分が属する最小限の共同体(たとえば家族)以外の責務が果たせず、モンスターになる。視野が狭くなっている。

・高齢者 … 心理的世代間格差に悩み、見捨てられ感がある。

どの世代にも、1.自己の矮小化 2.自己の砂粒化が起こっているといいます。自己の矮小化とは、ちっぽけな自分。経済大国日本に住んでいるという、下支えの部分がなくなり、100パーセント自前で自己肯定感を作る必要ができてきた。そして、自己の砂粒化とは、つながりがなく、ばらばらの個人になってしまうこと。集団が解体し、消費活動の病的な活性化を生む。共生能力が低く、自己利益の確保を集団の利益の増大よりも優先させる。あらゆる立場の人たちが、自分や社会の過去を後悔し、現在を否定し、未来に不安を感じている<不安な時代>だと言っています。


では、この<不安な時代>は、何によって、引き起こされたのか。


著者は、20年ぐらい前に起こった冷戦の終結と、その後の経済のグローバル化にヒントを得ようとしています。グローバル化は国家や権力を超えた経済の流れを作った一方で、個々人の格差を広げ、小競り合いを激化させたといいます。このような社会で理想とされるのは、短期だけでなく長期の将来をも合理的に見通して、かつ他者にかかわりなく自己利益だけを追求する『合理的経済人』で、ホモエコノミクスのモデルをもっと強くしたような、「タフで合理的な」強い個人です。


このような人間を理想とすれば、弱い人間は、『うつ病』となり、脳内の伝達物質の循環が改善されれば、もとの強い人間にもどるはず。そのような人間理解に、DSMを使った診断方法は合致していたのではないか、と、考察を進めています。精神科医も砂粒化してしまったという側面もあるといいます。


DSMが普及した背景は諸説あるらしく、製薬会社や保険会社が利益のために推進したという説、精神分析を排除しようとしたという裏話などが紹介されていますが、それだけでは上手く説明できず、経済状況との関係があるというのが、著者の考えです。


では、このような経済、社会構造で、ひとびとはどういう風に『うつ』になるのか。


この病理を読み解くのに使われているキーワードが、スプリッティングです。


対象となる人物・物事・状況に、良い側面と悪い側面が並存しているということを認識できず、完全に良いか全くダメかという極端な二分割思考にして、人間の複雑さや、状況の困難さを無視するという病的な防衛メカニズムのことなのだそうですが、これが、グローバリズム市場原理主義がとっている「売れるものは全面的に善、売れないものは全面的に悪」という立場に符合するといいます。

このように、20世紀後半になって人類は必死にあらゆる力を動員して、スプリッティング的な思考をシステム化することにより、複雑化や不可解さから目をそむけ、想定外の結果、事態を想像しなくてもよいような世界を作り上げようとしてきたのである。(177ページ)


ものごとを極端に単純化し、合理性の中に押し込めようとすることは、もともと病的なのだという見方です。精神構造が薄っぺらくなり、

自分の極端な矛盾した自我のあり方を「これでいいのか」と悩み、それを葛藤として抱え込んで複雑で繊細な表現で述べるようなことはとてもできなくても、「なんとなく不機嫌」「なんとなく気持ちが晴れない」というくらいの変化は自覚できる。それはもはや感情というよりは、もっと動物的な情動に近い次元の話だ。(179ページ)

「うつ」というのは、本来は、そこから自分の心の中を見つめ、人間というものについて深く考えるような沈潜するような感情だと著者は言います。最近の患者は、そこまでにいかず、イライラ、ムカムカ、ムシャクシャといった生理的な情動に変わってしまい、それを、DSMで判定すると、多くの場合、「大うつ病性障害」の基準に当てはまってしまうといいます。


私たちは、単純化してとらえられた経済の中で、ばらばらの個人がせめぎ会う社会のなかで、だれもが簡単にうつ病になってしまう可能性を持つ社会に住んでいるようです。本の最後で著者は震災に触れ、社会状況が変わることによって、人々も変わっていくことを予見されていますが、ある意味止められていた心の成長を取り戻すのは、それなりの苦痛を伴うものだと、私は、思います。


まず、私たちは、このことに思い至るべきかもしれません。


ホモエコノミクスも、DSMも、複雑でわかりにくい本当の世界を理解しやすくするために作られた理論モデルであり、本当の世界をそのまま写したものではないということです。あ、そーなんだー、と、受け入れたときに、すでにそれが世界であると解釈したのでは、世界全体を見誤ることになります。理論の背後により深遠な世界があることは、理論を作る段階では暗黙の了解であったはずです。


白か黒か、0か100かの二分思考に陥らない柔軟性を、誰もが必要としています。


それが、今の<不安な時代>を切り抜ける、大きな力になるかもしれません。














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