つながりたい自己

    **「痴呆老人」は何を見ているか 大井 玄**


認知症発達障害は全く何の関係も無いように見えますが、似たところもたくさんありますよね。私が思いつくだけでも、このようなことがあげられます。

・脳の機能がじゅうぶんに働いていない状態だと考えられていること。

・記憶 とくに 短期の記憶 が関わっていると考えられること。

・時間や空間の把握になんらかの問題があると考えられていること。

・実行機能に障害があるとされていること。



大きな違いは、認知症は、人生のある時点、おおかた後半から始まることで、本人は、脳の機能が低下する前の記憶やじゅうぶん発達した感情をとどめていることです。発達障害は出生前から始まっているとされ、本人は、障害でない状態がどのようなものなのか経験したことがないので想像もつかないという状態におかれているはずです。


この本は認知症の内面世界を理解することを目的にかかれた本ですが、参考になることがたくさんありました。


「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)


多少ショッキングだったのは、日米の文化比較として、アメリカ人は、認知症になることを怖れる理由として圧倒的に「自己の自立性が失われること」をあげていると述べられていることでした。日本のアンケートでは「家族や周囲の人に迷惑をかける」というのが圧倒的に多数だということでしたが、これは万国共通というわけではないようです。


このことを、この本では、アメリカ社会は自立性(=自分のことは自分で決定すること)を尊重し、日本社会は他人とのかかわりの中に自己があるからだと分析しています。


社会制度の違いもあるとは思いますが、アメリカでは重度痴呆になると積極的延命(抗生物質を使う、点滴をする)などはしない傾向で、それに対して日本では、とにかくどんな形でも生き続けるように家族が望むという明らかな違いがあるのだそうです。


自立性か迷惑かという考え方の違いは、障害全般についての日米の考え方の違いにも通じるものがあるのではないかと思いました。



本の真ん中の部分では、痴呆老人が経験する内面世界を説明していますが、一貫して主張されているのは、彼らは特別な状態になっているのではなく、私たちだれもが普通に経験していることがらで理解できるということでした。


知っておられる方もあると思いますが、認知症では、中核症状と周辺症状というのを明確にわけて考えます。記憶力が低下するなどの脳の機能の症状は中核症状ですが、徘徊や、夜間せん妄、幻覚、攻撃的になるなどは周辺症状といわれ、環境や介護の質によって良くなったり悪くなったりすると言われています。


認知症になって、短期の記憶力が極端に低下してくると、さっきと今が何が違っているのかも区別できない。自分がどこからどこへ移動したのかもわからない。時間と空間の確かさがなくなってくることで起こるのは、強い不安です。


不安を鎮めるため、不安から逃げるため、自分なりに外界を解釈して意味を見出そうとするので、施設の集会室が昔働いていた工場だといったり、他人なのに夫だといったりする。それは、私たち人間が、もともと、事物の客観的な関係性より、意味のつながりによって世界を認識しているからだとこの本では説明しています。平たく言えば、ひとりひとりが世界だと思っているものは、自分勝手な思い込みによって出来上がっているということだと思います。

つながりが感じられない世界は心象的によそよそしく、混乱し、理解できない様相を示しています。そこに生ずる情動は不安が主たるもので、たやすく恐怖へと成長します。不安、恐怖、怒りなど、いのちが脅かされたときに生ずる情動がコントロールできなくなった瞬間、せん妄状態に移行していくように見えます。(147ページ)


そして、それを鎮めていくのは、周囲のひとが、論理的にではなく、情動的にコミュニケーションをとることです。不安を推察し、それをなだめ、おだやかな、楽しい気分を共有することです。著者はここで、9.11テロにたいするアメリカ人のヒステリックな反応も、同じような原理によって説明できると言っていて、初めて読んだときは、突飛な感じがしたのですが、今自分が引用したところを読むと、人間の心理としては確かに同じなのかなぁという気がしてきました。自閉症のパニックがこれと似た反応だということは、なんとなく想像できます。不安なとき必要なのは慰めであって、論理的に正してもらうことではないというのは、自分の身に置き換えればなんてことはないのですが、認知症を介護する人にとって、それを理解して行動していくのにはそれなりの熟練を必要とするように思います。集団パニックを起こした外国の人の心情を理解してなだめることもなかなか難しいです。



この本では、最後の章をつかって、日本特有のひきこもり現象について述べていました。


人間が成長していくとき、自分の置かれた世界と「うまくつながっていない」感覚があるのは、普通にあることで、困難を乗り越えていくことで、世界とのつながりを深めていき、一まわり大きな人間になっていくのだと、かつては考えれていたと著者はいいます。そこでは精神的苦痛は必要な試練と考えられていたのですが、現在は、その苦痛の意義が見失われ、苦痛は簡単に病気にされてしまう側面があるということがあると言っています。


その後に述べられていることが、とても印象に残りました。


日本人には、かなり古い時代から、他者とのつながりを重視して、親に従順で、優しく、気配りがある、勉強のできる子がいい子とされてきたし、その子育ての伝統は続いている。そこに、戦後入ってきた価値観が「自立」だったというのです。
自立した人間にするためには、自己決定に必要な葛藤処理能力を育てなければならないのですが、それをせずに、自分で考えなさい、判断しなさいと突き放すことだけがなされ、その結果、若者が、自己決定をしなければならない場面から意識的に遠ざかるのがひきこもりであるというのは、高塚雄介さんという臨床心理士さんの所説からの引用です。


他者とのつながりのなかに自分を見出していく「つながりの自己」は、欧米以外の地域ではよく見られ、地球全体では、欧米だけが特殊で、それは、ギリシャローマ時代に他民族を征服して奴隷にした文化に由来しているのかもしれないと論じられています。周囲との関係に関わらず、自分の能力や意思によって自己決定していくヨーロッパ=アメリカ的な自己のありかたはここでは「アトム的自己」と呼ばれています。現在の日本では、「アトム的自己」を獲得することが、日本人の国際的な価値を高めることだと信じられ、子どもにもそれを強いるのですが、その方法が誤っているのかもしれません。


ここではまた、「つながりの倫理」についても述べられています。つながりの自己では、助け合うことが正義。でも、アトム的自己からみれば、公平さが正義になるという説明は説得力がありました。この二つの正義は、日本社会のなかで葛藤し、倫理が共有されない結果、常識が通用しないという状態を作っているようにも思えます。


これらのことは、生まれてきた日本の子どもたちに、世界とは何か、社会とは何かということを学んでいく過程で混乱をもたらし、「世界とうまくつながっていない」不安をもたらしていると考えられないか。それは、よくある青年期の不安ではなく、認知症の人と同じような、自分の存在をおびやかす、深い深いところでの不安ではないのか。そう考えると、ぞっとしました。




この本を読んで考えたのは、本当に、欧米の人が考えた発達障害の考え方をそのまま受け入れていいのだろうかということでした。この本で「ひきこもり」について述べられていることは、そのまま日本の発達障害の子どもや若者にもあてはまります。『平成日本型発達障害』というカテゴリーを作ってもいいぐらい、特徴的なものがあるのではないかと、私には思えます。


「アトム的自己」には、認識の偏りが生じているといいます。文化心理学の言葉で「根本的帰因エラー」というのだそうですが、「誰かが何かを行ったとき、それをその人の性質や人格の所為と認識し、その人が置かれた状況要因を無視する傾向」のことです。コミュニケーションがうまくいかないのは、その人が発達障害だから、と考えるのは、欧米人的な偏った考え方だといえないでしょうか。コミュニケーションというのは、本来、関係性に由来するもののはずです。


なんだか難しい議論になってきましたが、面白くもなってきました。少しずつ、しろうと研究を進めていきたいと思います。







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