学校での合理的配慮はハイブリディアンへの模索

  ** 発達障害の子どもの「ユニークさ」を伸ばすテクノロジー  中邑賢龍    **


ちょっと、想像してみてください。

教室にワープロを持ち込んでノートを取っている子がいたり、計算問題を電卓で解いている子がいたら、どんな感じですか? サングラスをかけていたり、ヘッドホンをしていたりする子がいたらどうですか?

大学だったらどうですか。小学校だったら? 大学入試会場では? 公務員試験では?


この本の帯には大きくこう書いてあります。

『漢字が書けないならワープロを使おう 計算ができないなら電卓を使おう』

発達障害の子どもたちは、学校でもいろんなツールを駆使して、使える能力をじゅうぶん伸ばしたらいいじゃないか、というのが、この本の提案です。



発達障害の子どもの「ユニークさ」を伸ばすテクノロジー

発達障害の子どもの「ユニークさ」を伸ばすテクノロジー



この本では、主に、学校の教室で、発達障害の人を助けるのに使えるテクノロジーやツールが紹介されています。

ノイズキャンセリングヘッドホン ・サングラス ・パーティション(ついたて)
・FM補聴システムと集音マイク(教師の声をマイクで拾って生徒の補聴器に届ける)
・書画カメラ(黒板の画面がモニターに映る)
・タイムエイド(時間の経過を視覚的に確認できる) ・アラーム ・リマインダ(確認の警告音を出してくれる)
マインドマップ(枝分かれ方式の思考整理術、パソコンソフトもある)
・ルビソフト(パソコンの文字にルビをふってくれる) ・テキストリーダ(音声読み上げ)
・カラーフィルタ(パソコンの色調を調整してみやすくする)
・ルーラ(パソコンの協調する行を大きく表示) ・スリットシート(本の上に当てる枠)
・電子辞書 ICレコーダ  ・デジカメ  ・電卓
・携帯用タイプライター(ノート記録用、テスト受験)

このほかに、教室で発達障害の人を助ける合理的な配慮の方法についても述べられています。

・採光・照明の調節   ・座席の場所   ・別室授業   ・時間の延長
                                     などなど

特殊なものもありますが、ありふれたツールにも使えるものが多いです。大人の発達障害のなかでは、かなり普及してきているものも一部あります。

が、

ここで、話題にしているのは、教室です。


教室に、日本の学校の教室に、これらを持ち込もうとすると、大きな抵抗にあってしまうのです。

ひとつは、学校側からの抵抗。そして、もうひとつは、発達障害本人や親御さんからの抵抗です。


この本では、ツールの紹介の前にかなりのページ数を割いて、この問題について書いてありました。

アメリカでは、ディスレクシアなどのLDを持つ子どもや学生が、録音図書やノート作成の支援、試験時間延長、別室受験などの支援を受けていること。日本からアメリカに渡り博士号を取った読み書き障害の女性の話なども紹介されています。

日本の、今の学校では、『こうしなければならないという常識』に縛られて前に進めないと著者はいいます。

・できないことは恥ずかしいという常識
・人と違うことは恥ずかしいという常識
・昔からの決まりだからそうすべきという常識
・あきらめることは良くないという常識
・近道はずるいという常識

テクノロジーに頼るのは、自分の力で努力することを諦めること、障害に負けることのように感じて、使うことができない気持ちがあります。また、協調性、集団の和を乱すことへの抵抗から、人と違う行動が取れないという気持ちがあります。

これらは、<日本的>な、感覚にもとづくものでしょう。教育制度や社会が教育に求めるものが、アメリカとは異なることによるものかもしれません。


しかし、時代が変化しているのだ、と、この本では述べています。

昭和40年代までは、手先を使う仕事がたくさんあり、読み書きができなくても就労できました。コミュニケーションが苦手でも、職人としての腕が確かであれば、多くの人に尊敬されながら仕事に専念できました。しかし、IT化、ハイテク化が進み、また、社会全体がスピードアップすることで、計算や読み書きが苦手、理解に時間がかかる、といった、軽度発達障害の人たちの社会適応は、時代とともに変化を余儀なくされているのだというのです。


学校で、わからないまま、できないまま、ついていけないよりは、
使えるテクノロジーを駆使して、能力の山を伸ばしていく方ほうがいい。ハイテク機能を自分の心身機能の一部に融合して生きる生き方もあるのではないか。著者はそのような生き方を、ハイブリディアン(Hybridian)と呼び、現代人は携帯やパソコンに依存し、誰もがハイブリディアンなのだといいます。


テクノロジーを使うというのは、「あきらめ」や「居直り」ではない、と、著者は言い切っています。障害を「受け容れ」、リハビリテーション教育とバランスよく組み合わせて、生活をポジティブに創造するものだと。


たとえば、携帯のメモ機能などを使えば、書字障害のある子でも連絡帳の内容をメモできます。
字を書けることよりも、聞いたことを正確にメモを取る能力を伸ばすことを大事と考えれば、携帯を利用することは合理的配慮です。授業に参加することより理解することが大事だと考えれば、別室やついたてや、録音機器の持ち込みも必要に応じて許可されるはずです。


でも、この問題がありますよね。

 <一部の子どもだけにテクノロジーを提供するのは不公平では?>(43ページ)

特別扱いについて否定的な意見、同じように学ぶことに意義があるとする意見について、もちろん、この本でも取り上げています。

これについては、この本は、はっきりこのように切って捨てています。

これらは、すべて障害に対する理解の不足からきていると考えることができます。たとえば、視力のない一部の子どもがメガネをかけていたら不公平と言うでしょうか? 発達障害向けの支援技術は視力のない子どもにとってのメガネと同じだととらえる必要があります。(43ページ)

障害が実際にあるということが理解されれば、それは合理的な配慮であるということがわかるはずなのです。が、
本人たちがどのように困っているか、学校だけでなく、親御さんにも理解しにくい、それが、発達障害の現状です。


合理的配慮によって大きく能力を伸ばしてくる子どもたちがどんどん出てくることで、世の中からの理解が変わってくるはずだと著者は言います。ハイブリディアンな発達障害者がぞくぞく出現する時代ももうすぐかもしれません。




ハイブリディアンな発達障害者。

こんな感じかな、と、想像してみました。


ハイテク機器を駆使しながら、きびきびと仕事をこなしていくLDやADHDのビジネスマン。ヘッドホン姿でにこやかに打ち合わせにでてくる設計士やイラストレター。サングラスがトレードマークの教師や会計士。。。。。


そのような将来を描きながら、知識やスキルを学びに学校にいく。テクノロジーに支えられながら学校に行くということは、新しいスタイルの発達障害者像を作り出すということだと理解しました。時代の変化に合わせた、新しい、発達障害者のあり方への模索は、もしかしたら、学校のあり方そのものも変えていくのかもしれないです。








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