時代文化的要因−広汎性発達障害と適応障害

 ** 時代が締め出すこころ 精神科外来から見えること 青木省三  **

 
著者の青木省三氏は、雑誌『こころの科学』(日本評論社)の監修者として、お名前は知っていました。著書を読ませていただくのは、おそらく初めてではないかと思います。

精神科医として仕事を始めてから30年あまりなのだそうです。あとがきにありました。

この30年、日本の経済は高度成長期からバブル期へ、そして、長い低成長期へと変化し、家族のありかたは、大家族から核家族へそして単身世帯の増加へと変化し、労働環境は年功序列から成果主義へと変化した、と、書いておられます。確かにその通り、私たちはそのような時代を生きてきました。

それらの変化が日本人のありかたに影響していることを診察室で感じつつ、精神科医として、それにどう関わっていきたいかということを、率直につづっておられます。

うつ病やパーソナリティ障害、統合失調症などと時代の関係についても述べられていますが、今回は発達障害について書かれている部分を中心に取り上げてみたいと思います。


時代が締め出すこころ――精神科外来から見えること

時代が締め出すこころ――精神科外来から見えること


広汎性発達障害と診断される成人が増えているのは、日本特有の現象なのだそうです。

中高年の、これまで問題なくコツコツと働いてきた人が、職場で問題を指摘されて失調をきたす例、職人として優秀な人が教壇に立つ仕事でうつになる、集団になじめず敏感となり妄想を抱く青年、など。広汎性発達障害の傾向を持った人が適応障害を起こして診断に至る例と考えられますが、これが、ヨーロッパに行って話しても共通の話題として通じないらしいです。

日本で、広汎性発達障害の特徴を持つ人が精神科を訪れ、診断を受けることが増えたのは、『時代文化的要因』が関与していると、著者は見ています。(72ページ)。

20年前、30年前であれば、現在の広汎性発達障害と診断される一群は、広汎性発達障害として顕在化しなかったのではないか。診断室では、かつてであれば広汎性発達障害とは見なされなかったし、破綻も来たさなかったのではないかと思う人に、少なからず出会う。私たちの生きている時代文化は、広汎性発達障害的な破綻とでもいうものを生じやすい社会に変貌しているのではないか(73ページ)。

自然と向き合う仕事や職人仕事が減り、人と向き合う仕事が増えたこと、社会の中の規範の喪失や文化の変容などが、広汎性発達障害を顕在化させる素地をつくっているのではと分析されています。

 
広汎性発達障害の特徴は、心理的、環境的な負荷が加わったときに際立ちやすく、負荷がないときは、普通に生活できる人もたくさんいるといいます。環境によって、見る人との関係によって、同じ人が、発達障害らしい特徴をそなえて見えるときと、まったく普通にやっているように見えるときがあることを、この本ではいくつもの例をひいて紹介しています。

また、発達障害らしい特徴を持ち続けている人でも、環境によって不適応だったり天然ボケの人気者だったりと変わる例、思春期に大きく悩んでいても、ブレない自分を確立したら個性的な大人になっていく例なども紹介されています。

そのような、いわゆるグレーゾーン的に発達障害の特徴を持っている一群の人たちを、社会適応が悪くなった時点だけを捕まえて『広汎性発達障害』と診断してしまうことに、とまどい、悩んでおられることがつづられています。


いわゆる、過剰診断の問題です。


精神科には、継続的に診察することや投薬によって、流動的な状態が固定化する心配があります。

精神科の門が比較的くぐりやすくなり、とくに病気がなくても、人生の悩みというべきものを抱えて診察室にやってくる人も増えましたが、このような人でも、精神科で診つづけると、だんだん精神疾患らしくなってしまうことがあるのだそうです。

また、軽い不安状態などに薬を出したことが、薬を飲んでいることに心理的に依存することにつながり、「自分は○○病である」という病気・病人としてのアイデンディティを確立していくケースにも出会ったといいます。

病人をつくってしまう。診断にはデメリットもあるということです。

また、そもそも、持って生まれたもの、まぎれもない自分の一部であるものを、治すべき病気や障害ということにためらいがある、とも書いています。

健康と呼ばれる多数の人に近づけていこうとすることには、それが生きづらさを軽減するためのものであればまだよいが、多数の人たちに近づけていこうとすること自体が目的になるとき、疑問を感じてしまう。(中略)障害以前に自分である。自分がそこからしか出発しようがないときに、それを障害とよぶことにはどうしても疑問を感じる。(163−164ページ)

先輩後輩や年功序列、和の尊重など、明文化されない暗黙のしきたりが読み取りやすかった時代とちがい、時とともに変化する微妙な「場」の空気を読むことを求められる今、人々のコミュニケーション能力が下がったのではなく、必要とされるコミュニケーション能力の水準があがったのだ、空気が読めないのは悪いことなのだろうかと問うています。

裏表のない人間は社会性としては低いかもしれないが、人間の質はそれとは別のものだ、とも。

決してぶれず、力強いまっすぐのストレートで勝負するのは、広汎性発達障害の傾向を持つ人たちの持ち味であり、そこに時代を切り開く力があるとも書いています。



著者は、その人の人生の長期的な視点から捉えていくことを治療方針に据えているようです。

孤独や過酷な環境にある人が、病気が唯一の生きる技術になっている場合、回復することが、楽しいこと、ゆとりなどにつながる環境を整えなければ、回復しようという意欲につながらない、という論はとても説得力がありました。

場合によっては投薬をしない、診断をしない、という選択をし、環境を変えることを具体的に提案していくことや、教師や産業医につないでいくことで改善した例がいくつも紹介されています。

もって生まれたものと環境の相互作用で病気が現れていると見、症状ではなく生活を変えることが大事。患者さんの人生の流れがよりよいものに向かうように応援することが、治療なのだと説いています。

ひとりひとりの思いや願いをきき、その人らしく生きることを支援する姿勢が、紹介されたケースのどれにも感じられました。


 
この本を読んだ後、考えました。
 
適応障害を生じること=発達障害 ではないということ。今の日本の発達障害を取り巻く状況では、この誤解が一人歩きして新たな誤解や偏見につながる懸念さえあると感じています。

精神科で診断され治療され克服されるべきものは、環境との相互作用で起こってきた社会適応の悪さであって、その背景にある広汎性発達障害は大事なその人の一部であり、その診断は自己理解の一助として、自分らしい人生の選択のために使うべきものなのでしょう。

『広汎性発達障害的な破綻』が、もしほんとうに日本特有なものだとしたら、日本の精神科の先生方で、発達障害以外の診断名を作ることはできないのでしょうか。一時はその診断名に心理的に依存したとしても、適応が良くなったときに「治った」と確認し、卒業していける診断名です。

本来的な発達障害そのものでしんどさをかかえている人と、環境とのかかわりで一時的に適応の悪さが表に出ている人を区別することで、発達障害ということばが一般的によく理解される助けにもなると思います。

私が長らく持ち続けていた疑問、グレーゾーンの発達障害は不適応が出たときのみ診断されるということについての収まりの悪さが、この本を読んですこしすっきりした気がします。障害そのものは軽微なのに、障害という診断に心理的に依存することの危険性もうすうす感じていたのですが、それも裏づけられた感じがします。今後は、日本という社会の状況と突き合わせてみるということを、もう一歩進めてみたいと思います。


(『時代が締め出すこころ−精神科外来から見えること』青木省三 2011年2月 岩波書店




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